【旧暦長月四日 月齢 2.9 秋分 雷乃収声(かみなりこえをおさむ)】
有機栽培の農家さんでも合成洗剤を使っていたり。食品添加物や農薬に気をつけている料理研究家さんがIHやテフロン加工のフライパンを使っていたり。環境や平和に関する仕事をしている人が戦争と環境破壊に加担している企業の商品やサービスを利用していたり。
それぞれが取り組んでいる分野とつながっている問題で、そっちも少し気にするようにしたら相乗効果があるのに、なかなかつながらないんだなぁということがよくあることに気がつきました。
直接自分に返ってくるのがわかりやすい場合でも、そういうことがあるのです。例えば、有機栽培の農家さんで、畑では化学物質を使わないようにして、土づくりも熱心にしているのに、地下浸透式の排水で(下水道に流すのではなく、敷地内に流して浸透させる)、合成洗剤を使っていることがあります。合成洗剤を流すと、土や生態系に悪影響があるのに…、とおせっかいだとは知りながら、キッチンや洗濯機のそばには激しく合成洗剤が並んでいるのを見て、心配になったことがあります。
全く意識の違う人たちと交流するのも大切という意見をたびたび耳にするのですが、まずは似たフィールドでやっている人たち同士がつながって、情報交換をして、知らない部分を補完しあうことも意味があるなぁと思いました。
私自身も、農薬や化学肥料、食品添加物についてはいろいろ知って、気をつけるようになっていた頃でも、ワクチンやクスリの危ない話は全然知らなかったし、お魚の養殖方法が悲惨だったり、ウナギやマグロのように絶滅が危惧されているなど持続不可能なことも知らなかったし、環境を守りたいと思いながら戦争と環境問題がつながっていることもわからなかったし、知らないことがいっぱいで、自分が望む世界のあり方とは真逆の世界を下支えするような行動も、知らずにたくさんしていました。
マルシェに行くようになったり、仕事仲間とプライベートでも話をよくするようになったり、フェアトレードショップや自然食品店、身体に優しい食事を提供してくれる飲食店、オーガニックコットンのお店などの人たちと仲良くなって、いろいろお話するようになったおかげで、自然とたくさん情報に触れられるようになりました。納得行かない話は図書館やインターネットで調べたりして裏をとったり。そうしてだんだんと自分なりに理解を深めて、行動を改めて来られました。
自分の場合、知らないことは恥でも何でもなくて、「えー知らなかったー!教えてー」という感じになるのですが、知らなかったことを恥に思う人もいるようです。自分が知っていて、あまり知られていない話を誰かが知っていたら、自分の場合、稀少な仲間を見つけて、うれしいと感じるのですが、自分だけ知っていることを誇りにしておきたい人もいるようです。それってどうなんかなぁー?とは思うのですが、気持ちよく情報共有ができる技を身につけたいところです。私はそういうのを知らずにしゃべってしまい、気づかないうちにプライドを傷つけているらしいので…。
20140927
20140921
見てくれている人
【旧暦葉月廿八日 月齢 27.5 白露 玄鳥去(つばめさる)】
昔、職場でお世話になっていた人(仮にAさんとしたいと思います)と、「見てくれている人っていますよね」という話になったことがありました。
偶然でしたが、その「見てくれている人」というのは、二人にとって同じ人でした。彼は隣の部署で英語の学習書の編集をしていて、私たちがそんな話をしていた頃には別な会社に転職していました。
Aさんはデザインが上手で、Aさんの作る本の販促物のデザインはとても素敵です。販促物のデザインで遅くなった時に、その「見てくれている人」とたまたま帰りが一緒になって、Aさんが彼に、「英語の学習書の部署なのに、英語ができないのが申し訳なくて」と話したら、彼は「Aさんはデザインができるでしょう?僕にはできない。それと一緒じゃないかな。僕ができないことをAさんがやってくれているんだから、申し訳なくなんか思わなくても」と言ったのだそうです(Aさんは私から見たらかなり英語ができます。厳しい英語の学校に通って特訓していた努力家さんで自分に厳しいのです)。部署が違っていて、何をしているかわからなさそうなものでしたが、Aさんは見てくれている人っているんだなぁと思ったと教えてくれました。
それを聞いて、私もAさんに、彼が「見てくれていた」話をしました。私が大学で英語を専攻していたのを知って、彼は私に「読んでみる?」とゲラ刷りの原稿を渡してくれたのでした。一通り気づいたことを書いて返しました。その時は何もなかったのですが、だいぶ後になって、編集部でインターンをさせてもらえることになったときに、彼が「(ゲラには)変な指摘もあったけど、あの年齢でたいしたもんだ。育てないともったいない。出版業界が厳しいからと、即戦力しか採らない時代だけど、新しい人を育てないと先はどうなるだろう。僕たちはもう育てる側に立つ年齢になっているのに」というようなことを話していたと、他の人から聞きました。それまで、インターンの前例がなかったことを考えると、私がインターンをさせてもらえることになったことと、彼のその言葉が、無関係だとは思えませんでした。そのインターンを通じて私は編集の経験を積ませてもらうことができて、今の仕事につながっています。
この話を思い出したのは、最近、別の「見てくれている人」の存在を知って、うれしくなったからでした。私が過去にした仕事を密かに見てくれていた人から、新しい仕事をいただきました。とても楽しい仕事で、やりがいを感じています。
その過去の仕事というのは、誰にも悪気はなくて、何かの行き違いだったのだと思うのですが、実は、費用のことで少し不公平なことがあったことを偶然知ることになってしまい、やる気をなくしそうになったものでした。引き受けたからにはいい仕事をしよう、最終的に使う人が喜んでくれるものにしようと、気を取り直して、手を抜かずにきちんと全力でやった仕事でした。そうしてできあがったものを見てくれていた人から楽しい仕事がやってくるとは。どんなことがあっても、一つ一つ、丁寧に、いい仕事をすることの大切さを学びました。
最初のエピソードで書いた「見てくれている人」も、転職が決まったのは「自分の仕事を見てくれている人がいて、来ないかと言ってもらえた」と言っていました。私も誰かのより良い歩みをそっと後押しするような、「見てくれている人」になれるといいなぁ、そんなことを思いました。
昔、職場でお世話になっていた人(仮にAさんとしたいと思います)と、「見てくれている人っていますよね」という話になったことがありました。
偶然でしたが、その「見てくれている人」というのは、二人にとって同じ人でした。彼は隣の部署で英語の学習書の編集をしていて、私たちがそんな話をしていた頃には別な会社に転職していました。
Aさんはデザインが上手で、Aさんの作る本の販促物のデザインはとても素敵です。販促物のデザインで遅くなった時に、その「見てくれている人」とたまたま帰りが一緒になって、Aさんが彼に、「英語の学習書の部署なのに、英語ができないのが申し訳なくて」と話したら、彼は「Aさんはデザインができるでしょう?僕にはできない。それと一緒じゃないかな。僕ができないことをAさんがやってくれているんだから、申し訳なくなんか思わなくても」と言ったのだそうです(Aさんは私から見たらかなり英語ができます。厳しい英語の学校に通って特訓していた努力家さんで自分に厳しいのです)。部署が違っていて、何をしているかわからなさそうなものでしたが、Aさんは見てくれている人っているんだなぁと思ったと教えてくれました。
それを聞いて、私もAさんに、彼が「見てくれていた」話をしました。私が大学で英語を専攻していたのを知って、彼は私に「読んでみる?」とゲラ刷りの原稿を渡してくれたのでした。一通り気づいたことを書いて返しました。その時は何もなかったのですが、だいぶ後になって、編集部でインターンをさせてもらえることになったときに、彼が「(ゲラには)変な指摘もあったけど、あの年齢でたいしたもんだ。育てないともったいない。出版業界が厳しいからと、即戦力しか採らない時代だけど、新しい人を育てないと先はどうなるだろう。僕たちはもう育てる側に立つ年齢になっているのに」というようなことを話していたと、他の人から聞きました。それまで、インターンの前例がなかったことを考えると、私がインターンをさせてもらえることになったことと、彼のその言葉が、無関係だとは思えませんでした。そのインターンを通じて私は編集の経験を積ませてもらうことができて、今の仕事につながっています。
この話を思い出したのは、最近、別の「見てくれている人」の存在を知って、うれしくなったからでした。私が過去にした仕事を密かに見てくれていた人から、新しい仕事をいただきました。とても楽しい仕事で、やりがいを感じています。
その過去の仕事というのは、誰にも悪気はなくて、何かの行き違いだったのだと思うのですが、実は、費用のことで少し不公平なことがあったことを偶然知ることになってしまい、やる気をなくしそうになったものでした。引き受けたからにはいい仕事をしよう、最終的に使う人が喜んでくれるものにしようと、気を取り直して、手を抜かずにきちんと全力でやった仕事でした。そうしてできあがったものを見てくれていた人から楽しい仕事がやってくるとは。どんなことがあっても、一つ一つ、丁寧に、いい仕事をすることの大切さを学びました。
最初のエピソードで書いた「見てくれている人」も、転職が決まったのは「自分の仕事を見てくれている人がいて、来ないかと言ってもらえた」と言っていました。私も誰かのより良い歩みをそっと後押しするような、「見てくれている人」になれるといいなぁ、そんなことを思いました。
20140918
人工甘味料のリスク
【旧暦葉月廿五日 月齢 23.5 白露 玄鳥去(つばめさる)】
人工甘味料で代謝異常がおこり、肥満リスクが高まる可能性があるというニュースを新聞で見かけました。そのニュースで取り上げられていた研究論文の要約はコチラです。
20140914
殺虫剤入りのお茶を飲んでいませんか?
【旧暦葉月廿一日 月齢 19.5 白露 鶺鴒鳴(せきれいなく)】
我が家では無農薬・無化学肥料・フェアトレードのお茶を飲んでいるので心配ないのですが、家族や友人、知人がそうではないので、グリーンピースの報告を読んで、とても心配になりました。事実を知って、それでも飲むならそれは本人の自由なのですが、知っていたなら飲まなかったということもあるので、以下に紹介します。
この報告は、インド国内で販売されている、パッケージされた茶葉を対象に残留農薬を調査した結果をまとめたもの。インドで生産されているお茶の11%は世界に輸出されていて、輸出されたお茶の多くは、リプトン、トワイニング、テトリーなどのメジャーブランドとして流通しています。
ちなみに、要約に出てきているネオニコチノイド系農薬は、虫だけでなく、人間への影響も懸念されていて、中枢神経系、自律神経系、骨格系に関連する多様な症状を引き起こす。脈の異常、指の震え、発熱、腹痛、頭痛、胸痛、短期の記憶障害も起きるという研究結果もあります(参照:中村隆市さんのブログ記事「農薬ネオニコチノイドに警鐘 「予防原則」で命守れ」※新聞記事などの引用を交えての考察です)。
国産は安心というイメージがありますが、ネオニコチノイド系農薬の使用基準値は、日本は実はとても高くて、最も低いヨーロッパの数百~千倍(物によって異なる)です。しかも、ヨーロッパでは2015年までに使用を禁止する決定をEUが出しています。お茶の話題なので、お茶について言えば、日本のお茶は使用基準値が50ppmで、EUの0.1ppmに対して500倍もの差があります。美味しんぼの雁屋さんもブログで書かれていますが、私もミツバチの二の舞いにはなりたくないし、周りの人にもなってほしくありません。
*ネオニコについてもっと知りたい方はコチラ
無農薬・無化学肥料・フェアトレードは贅沢品という考え方をしている人が多いようなのですが、数十円~数百円くらいしか値段は変わりませんし、無農薬・無化学肥料・フェアトレードのお茶はおいしいのでミルクや砂糖がいりません。健康を害したらもっとお金がかかるので、トータルで考えたら、どっちが経済的にも健康的にもプラスになるでしょうか?
それに、農薬を使用せざるを得ない状況を作られている農家の人たちは、買って食べて取り込む消費者よりももろに農薬の影響を受けています。安いからと慣行栽培のものを買い続けていれば、状況を変えることはできません。農薬などの資材費がかかるのに、安くしか売れないので、農家の人は金銭的にも苦しくなり、儲かるのは農薬を売りまくる農協や企業だけです。危ない農薬を浴びずにおいしい農産物を作れる体制をみんなでつくっていくほうが賢明だと私は思います。
我が家では無農薬・無化学肥料・フェアトレードのお茶を飲んでいるので心配ないのですが、家族や友人、知人がそうではないので、グリーンピースの報告を読んで、とても心配になりました。事実を知って、それでも飲むならそれは本人の自由なのですが、知っていたなら飲まなかったということもあるので、以下に紹介します。
お茶に農薬? インドからの報告
http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/blog/50478/この報告は、インド国内で販売されている、パッケージされた茶葉を対象に残留農薬を調査した結果をまとめたもの。インドで生産されているお茶の11%は世界に輸出されていて、輸出されたお茶の多くは、リプトン、トワイニング、テトリーなどのメジャーブランドとして流通しています。
調査結果の要旨を以下に引用します。
【調査結果の要旨】リプトンを販売しているユニリーバは、今回の報告を受けて、2020年までに原材料の農産物を栽培する際に使用する農薬を減らすなど、持続可能な農法への転換をするとしています。また、インドのお茶については、農薬に頼らない農法について科学研究を開始すると発表しています(参照:Unilever Commissions Research in India on the Feasibility of Non-Pesticide Methods of Plant Protection for Tea Crops)。
・46サンプル中、合計34種類の農薬が検出された。サンプル全体の96%で検出された。
・検出された農薬の中には、最も危険な農薬であるモノクロトホスと、ミツバチの大量死の一因にもなっているネオニコチノイド系農薬イミダクロブリドが検出された。
・農薬が検出されたサンプルの半数以上は、10種類の“カクテル(混合物)”の農薬が含まれており、その内の1つのサンプルからは20種類の殺虫剤が混合していた。
・最低でも一つの農薬が検出されたサンプルは、EUが設定した残留基準値を超えていた。
・検出された農薬34種類の内、23種類の農薬はインドで茶葉栽培への使用が許可されていない。さらなる調査によると、インドで1989年以降、使用が禁止されている農薬であるにも関わらず、DDTが頻繁に使用されていた。
ちなみに、要約に出てきているネオニコチノイド系農薬は、虫だけでなく、人間への影響も懸念されていて、中枢神経系、自律神経系、骨格系に関連する多様な症状を引き起こす。脈の異常、指の震え、発熱、腹痛、頭痛、胸痛、短期の記憶障害も起きるという研究結果もあります(参照:中村隆市さんのブログ記事「農薬ネオニコチノイドに警鐘 「予防原則」で命守れ」※新聞記事などの引用を交えての考察です)。
国産は安心というイメージがありますが、ネオニコチノイド系農薬の使用基準値は、日本は実はとても高くて、最も低いヨーロッパの数百~千倍(物によって異なる)です。しかも、ヨーロッパでは2015年までに使用を禁止する決定をEUが出しています。お茶の話題なので、お茶について言えば、日本のお茶は使用基準値が50ppmで、EUの0.1ppmに対して500倍もの差があります。美味しんぼの雁屋さんもブログで書かれていますが、私もミツバチの二の舞いにはなりたくないし、周りの人にもなってほしくありません。
*ネオニコについてもっと知りたい方はコチラ
無農薬・無化学肥料・フェアトレードは贅沢品という考え方をしている人が多いようなのですが、数十円~数百円くらいしか値段は変わりませんし、無農薬・無化学肥料・フェアトレードのお茶はおいしいのでミルクや砂糖がいりません。健康を害したらもっとお金がかかるので、トータルで考えたら、どっちが経済的にも健康的にもプラスになるでしょうか?
それに、農薬を使用せざるを得ない状況を作られている農家の人たちは、買って食べて取り込む消費者よりももろに農薬の影響を受けています。安いからと慣行栽培のものを買い続けていれば、状況を変えることはできません。農薬などの資材費がかかるのに、安くしか売れないので、農家の人は金銭的にも苦しくなり、儲かるのは農薬を売りまくる農協や企業だけです。危ない農薬を浴びずにおいしい農産物を作れる体制をみんなでつくっていくほうが賢明だと私は思います。
20140828
怒りについて
【旧暦葉月四日 月齢 2.5 処暑 天地始粛(てんちはじめてさむし)】
スピリチュアル系の本や話題では、怒りは良くないものとされている。愛と許しが説かれている。(最初にことわっておきたいが、スピリチュアルな世界は好きなほうだ)
それは素晴らしいことだと憧れる。だれに対しても愛をもって接することができて、何があっても許すことができるなら、素晴らしい。
が、しかし。私はまだ人間で、イヤミの一つも言いたくなることもあるし、嫌だなと思う人もいるし、ナメられたり、不平等な扱いを受けたり、ひどい目に合わされたりしたら怒ることもある。そういう目に遭っている人を見ても怒りがこみ上げてくる。
怒らないこと、という本があるくらい、怒ることは良くないことなのだろう。そう言われても、私は怒ってしまう。無理に怒りをないものとしたり、怒っていないふりをして神さまたちならどう考えるかと考えて聖人になりきるのは、自分には嘘に思えてできない。出てきたものをないことにはできない。出てきているのにないことにするのは、例えば、頭痛を鎮痛剤でごまかしてないことにしてしまうのと同じに思える。自分は出てきた感情は出てきたものとして真剣に向き合い、学びの機会にしたいと思っている。
正直言って、出てきた感情と真剣に向き合うのはかなり苦しい。怒りを感じる自分のことを、「あーあ、まだまだダメなヤツ」と思うこともある。でも、こういうときに自分は嫌だと感じるんだ、それはなぜだろうと考えていくと、自分が普段考えてもいなかったことに気付くこともあり、自分というものがよりはっきりとしてくる。
最近も、腹が立つことがあった。だれかに腹が立ったら、それをそのままぶちまける、我慢して目をつぶる、今後は相手と距離を置くようにする、など、いろいろな選択肢があるが、そのままぶちまけるような勇気はなく、それでいい結果をもたらすとも思えないので、一日くらい悶々とした。自分の中で相手にそういうことをさせている行動や思考があっただろうかと考えたり、こういうとき、我慢して目をつぶるのが許しなのか?相手に好きにさせておくのが愛なのか?と自問したりした。返事をしないといけないものだったため、相手にほんの少しでもいい変化をもたらすにはどんな返答をすればいいんだろうと考えた。今後について建設的な提案をしつつ、傍若無人なやり方に黙って従いはしないということをやんわりと伝えた。結果、相手にどんな影響があったのかはわからない。やんわりすぎて伝わったかすらわからない。でも、自分には少し成長したような達成感があった。
怒りが必ずしもいつも悪い結果をもたらすわけではないとも思う。昔、相方にむちゃくちゃに怒られたことがある。その頃は私以外の家族が結構大変だった時期で、自分だけ念願の大学に通い、好きな勉強をして、好きな仕事をして、いい人たちに囲まれて、幸せでいて、家族に申し訳なく、なんとなくうしろめたく思うところがあった。それをそのまま相方に話したら、めちゃくちゃ怒られた。だいぶ前のことなので、もう記憶もおぼろげだが、なぜそのような思考になるのかと問い詰められたような記憶がある。
相方の怒りのおかげで、私は自分の幸せを追求していいのだと思えるようになった。まずは自分が幸せになり、それから家族を幸せにして、と考えられるようになり、気づけば、家族も今は大変な時期を過ぎて、それなりに幸せに暮らしている。あれは、怒りがいい結果を生んだ出来事だったなぁと思い返すことがある。
相手を不愉快にさせることを恐れて、本当におもっていることを言わずに、表面上だけニコニコして、相手にすべて合わせて、愛と許しの振る舞いをしても、私の心の中にはきっと、怒りや憤りが生まれているわけだから、本当の愛と許しには程遠い。それで懺悔をすれば済むのか? なにか唱えればそれが清算されるのか? 私にはまだそういう実感はない。そういうのを推奨している人たちの中には、そういうのをしない人たちを蔑むような発言をする人もいて、結局あなたたちも心の奥底にはネガティブな感情を持っているじゃないか、と思うこともある。そして、そうやって相手に合わせているうちに、本当に自分が考えていることや望んでいることが、どんどんわからなくなっていく。直感が鈍っていく。
健全な怒りというのは、世の中を良くするために作用することもあると思っている。世の中で起こっているさまざまなひどい出来事を、やめてくれ、助けてくれ、どうにか現状を知ってもらいたいというなかなか普通のメディアからは聞こえてこない悲鳴を伝えたいし、伝えたくても伝えられない立場にある人たちの代弁者でありたいと思っているが、スピリチュアル系の人たちの中には、そういうひどい出来事を流布することは人々の心に不安を広げるために良くないことだと考えている人もいるようだ。事実としてひどいことが行なわれているのに、それを見ないようにして、幸せな暮らしをして、ポジティブな感情を大きくしていくのがよいこととされているかのように思える。
引き寄せの法則などから考えれば、確かに、そういう意見も一理あるのかもしれない。でも、人間なのだから、自分以外の人間や動物や植物がひどい目にあわせれていながら、本当に幸せになることはないのではないだろうか。そのひどい出来事に対する関心が高まれば、変える力を生むことにもなるのではないだろうか。言霊実験でも、無関心が一番腐敗をもたらす(ごはんに、「ありがとう」「バカヤロウ」という声をかけるか、紙を見せるかしたものと、無視するものの3種類を放置して経過を見る実験。「ありがとう」は発酵に向かい、「バカヤロウ」と無視は腐敗に向かうが、無視されたものが一番ひどく腐敗する)。自分だけ平和で安全で快適で楽しくて、世の中にあるひどいことを無視しつづけていたら、自分のその快適な暮らしさえ、蝕まれていくようにも思える。
前に、ある日本の有名なジャーナリストの人が、かなり人格の高い環境活動家に、日本人はマイ箸程度の小さな取り組みしかしない、と批判めいたことを言ったら、その環境活動家は笑って、そういう小さな行ないをする人たちはappreciate(真価を理解されて、感謝)されなければならない、彼らはたとえ小さなことでも行動していて、自然をよくするための力になっているのだからというようなことを笑顔で話していたのを映像で見たことがある。ジャーナリストさんのほうはムッとしていたが、より平和的で建設的な考えに変化する機会を提供することにもなり、ああいう対応ができたらいいなぁと勉強になった。私はそのジャーナリストさんの批判の仕方に腹を立てたが、環境活動家は腹を立てるどころか笑っていて、これが私と彼の違いだなぁ、と思った。
私はまだまだ偉大なスピリットからはほど遠い人間で、怒りを持つことがある。怒りをただ噴出させるのでは何も生まないが、貴重な学びの機会として、自分を知り、自分のまわりに良い変化をもたらす訓練として捉え、怒りと真剣に向き合って一つずつ丁寧に消化していけば、いずれは怒らずに笑いとユーモアでまわりにいい変化をもたらす人間になれるんじゃないかと思っている。
スピリチュアル系の本や話題では、怒りは良くないものとされている。愛と許しが説かれている。(最初にことわっておきたいが、スピリチュアルな世界は好きなほうだ)
それは素晴らしいことだと憧れる。だれに対しても愛をもって接することができて、何があっても許すことができるなら、素晴らしい。
が、しかし。私はまだ人間で、イヤミの一つも言いたくなることもあるし、嫌だなと思う人もいるし、ナメられたり、不平等な扱いを受けたり、ひどい目に合わされたりしたら怒ることもある。そういう目に遭っている人を見ても怒りがこみ上げてくる。
怒らないこと、という本があるくらい、怒ることは良くないことなのだろう。そう言われても、私は怒ってしまう。無理に怒りをないものとしたり、怒っていないふりをして神さまたちならどう考えるかと考えて聖人になりきるのは、自分には嘘に思えてできない。出てきたものをないことにはできない。出てきているのにないことにするのは、例えば、頭痛を鎮痛剤でごまかしてないことにしてしまうのと同じに思える。自分は出てきた感情は出てきたものとして真剣に向き合い、学びの機会にしたいと思っている。
正直言って、出てきた感情と真剣に向き合うのはかなり苦しい。怒りを感じる自分のことを、「あーあ、まだまだダメなヤツ」と思うこともある。でも、こういうときに自分は嫌だと感じるんだ、それはなぜだろうと考えていくと、自分が普段考えてもいなかったことに気付くこともあり、自分というものがよりはっきりとしてくる。
最近も、腹が立つことがあった。だれかに腹が立ったら、それをそのままぶちまける、我慢して目をつぶる、今後は相手と距離を置くようにする、など、いろいろな選択肢があるが、そのままぶちまけるような勇気はなく、それでいい結果をもたらすとも思えないので、一日くらい悶々とした。自分の中で相手にそういうことをさせている行動や思考があっただろうかと考えたり、こういうとき、我慢して目をつぶるのが許しなのか?相手に好きにさせておくのが愛なのか?と自問したりした。返事をしないといけないものだったため、相手にほんの少しでもいい変化をもたらすにはどんな返答をすればいいんだろうと考えた。今後について建設的な提案をしつつ、傍若無人なやり方に黙って従いはしないということをやんわりと伝えた。結果、相手にどんな影響があったのかはわからない。やんわりすぎて伝わったかすらわからない。でも、自分には少し成長したような達成感があった。
怒りが必ずしもいつも悪い結果をもたらすわけではないとも思う。昔、相方にむちゃくちゃに怒られたことがある。その頃は私以外の家族が結構大変だった時期で、自分だけ念願の大学に通い、好きな勉強をして、好きな仕事をして、いい人たちに囲まれて、幸せでいて、家族に申し訳なく、なんとなくうしろめたく思うところがあった。それをそのまま相方に話したら、めちゃくちゃ怒られた。だいぶ前のことなので、もう記憶もおぼろげだが、なぜそのような思考になるのかと問い詰められたような記憶がある。
相方の怒りのおかげで、私は自分の幸せを追求していいのだと思えるようになった。まずは自分が幸せになり、それから家族を幸せにして、と考えられるようになり、気づけば、家族も今は大変な時期を過ぎて、それなりに幸せに暮らしている。あれは、怒りがいい結果を生んだ出来事だったなぁと思い返すことがある。
相手を不愉快にさせることを恐れて、本当におもっていることを言わずに、表面上だけニコニコして、相手にすべて合わせて、愛と許しの振る舞いをしても、私の心の中にはきっと、怒りや憤りが生まれているわけだから、本当の愛と許しには程遠い。それで懺悔をすれば済むのか? なにか唱えればそれが清算されるのか? 私にはまだそういう実感はない。そういうのを推奨している人たちの中には、そういうのをしない人たちを蔑むような発言をする人もいて、結局あなたたちも心の奥底にはネガティブな感情を持っているじゃないか、と思うこともある。そして、そうやって相手に合わせているうちに、本当に自分が考えていることや望んでいることが、どんどんわからなくなっていく。直感が鈍っていく。
健全な怒りというのは、世の中を良くするために作用することもあると思っている。世の中で起こっているさまざまなひどい出来事を、やめてくれ、助けてくれ、どうにか現状を知ってもらいたいというなかなか普通のメディアからは聞こえてこない悲鳴を伝えたいし、伝えたくても伝えられない立場にある人たちの代弁者でありたいと思っているが、スピリチュアル系の人たちの中には、そういうひどい出来事を流布することは人々の心に不安を広げるために良くないことだと考えている人もいるようだ。事実としてひどいことが行なわれているのに、それを見ないようにして、幸せな暮らしをして、ポジティブな感情を大きくしていくのがよいこととされているかのように思える。
引き寄せの法則などから考えれば、確かに、そういう意見も一理あるのかもしれない。でも、人間なのだから、自分以外の人間や動物や植物がひどい目にあわせれていながら、本当に幸せになることはないのではないだろうか。そのひどい出来事に対する関心が高まれば、変える力を生むことにもなるのではないだろうか。言霊実験でも、無関心が一番腐敗をもたらす(ごはんに、「ありがとう」「バカヤロウ」という声をかけるか、紙を見せるかしたものと、無視するものの3種類を放置して経過を見る実験。「ありがとう」は発酵に向かい、「バカヤロウ」と無視は腐敗に向かうが、無視されたものが一番ひどく腐敗する)。自分だけ平和で安全で快適で楽しくて、世の中にあるひどいことを無視しつづけていたら、自分のその快適な暮らしさえ、蝕まれていくようにも思える。
前に、ある日本の有名なジャーナリストの人が、かなり人格の高い環境活動家に、日本人はマイ箸程度の小さな取り組みしかしない、と批判めいたことを言ったら、その環境活動家は笑って、そういう小さな行ないをする人たちはappreciate(真価を理解されて、感謝)されなければならない、彼らはたとえ小さなことでも行動していて、自然をよくするための力になっているのだからというようなことを笑顔で話していたのを映像で見たことがある。ジャーナリストさんのほうはムッとしていたが、より平和的で建設的な考えに変化する機会を提供することにもなり、ああいう対応ができたらいいなぁと勉強になった。私はそのジャーナリストさんの批判の仕方に腹を立てたが、環境活動家は腹を立てるどころか笑っていて、これが私と彼の違いだなぁ、と思った。
私はまだまだ偉大なスピリットからはほど遠い人間で、怒りを持つことがある。怒りをただ噴出させるのでは何も生まないが、貴重な学びの機会として、自分を知り、自分のまわりに良い変化をもたらす訓練として捉え、怒りと真剣に向き合って一つずつ丁寧に消化していけば、いずれは怒らずに笑いとユーモアでまわりにいい変化をもたらす人間になれるんじゃないかと思っている。
20140827
長崎原爆の被爆者代表・城台さんのスピーチ
【旧暦葉月三日 月齢 1.5 処暑 綿柎開(わたのはなしべひらく)】
8月の半ばごろ、友人のブログで紹介されていて、読みたい読みたいと思っていました。気持ちがしっかりしているとき、かつ、腰を据えてじっくりと読めるときにと思っていて、ようやく読むことができました。
城台さんは、用意していた原稿とは違う内容を、アドリブで話されたそうです(参照:【IWJブログ】長崎原爆の被爆者「今年は準戦時体制でもあります」 ~広島・長崎にみる安倍総理の「コピペ」は戦後レジーム」への挑戦!?)。日頃からおもわれていることがほとばしるように出たのだろうなぁと思いました。まだ読まれていない方はぜひ、読んでみてください。
東京新聞8月9日付より引用↓
おばあちゃんはその日、お友だちと電車ででかける用事があって、横手駅で待ち合わせていました。おばあちゃんは忘れ物をして家にとりに戻ったので待ち合わせに間に合わず、お友だちは電車で先にでかけました。その電車に爆弾が落ちて、お友だちは亡くなりました。おばあちゃんはたまたま忘れ物をしたから助かったけれど、大切なお友だちが亡くなって、とてもとても悲しい思いをしました。約束をしていなければ、と悔やみました。
そういう話を、母から聞きました。おばあちゃんから直接は聞いたことがなくて、つらい思いをもう話したくないのかもしれないと思っています。おばあちゃんは、原爆の被爆者とは違って、身体には全く傷が残らなかったけれど、心には傷を抱えたままなのかもしれません。
おばあちゃんがたまたま忘れ物をしたから、おばあちゃんは助かり、お母さんが生まれることができて、私も生まれることができました。“再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。”という言葉に、もうあんな悲しいことが起こらないように、できることをコツコツとやっていきたいと思いました。
8月の半ばごろ、友人のブログで紹介されていて、読みたい読みたいと思っていました。気持ちがしっかりしているとき、かつ、腰を据えてじっくりと読めるときにと思っていて、ようやく読むことができました。
城台さんは、用意していた原稿とは違う内容を、アドリブで話されたそうです(参照:【IWJブログ】長崎原爆の被爆者「今年は準戦時体制でもあります」 ~広島・長崎にみる安倍総理の「コピペ」は戦後レジーム」への挑戦!?)。日頃からおもわれていることがほとばしるように出たのだろうなぁと思いました。まだ読まれていない方はぜひ、読んでみてください。
東京新聞8月9日付より引用↓
◆被爆者代表「平和への誓い」全文読んでいて、おばあちゃんが空襲を免れた話を思い出しました。
一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
平成二十六年八月九日
被爆者代表 城台美弥子
おばあちゃんはその日、お友だちと電車ででかける用事があって、横手駅で待ち合わせていました。おばあちゃんは忘れ物をして家にとりに戻ったので待ち合わせに間に合わず、お友だちは電車で先にでかけました。その電車に爆弾が落ちて、お友だちは亡くなりました。おばあちゃんはたまたま忘れ物をしたから助かったけれど、大切なお友だちが亡くなって、とてもとても悲しい思いをしました。約束をしていなければ、と悔やみました。
そういう話を、母から聞きました。おばあちゃんから直接は聞いたことがなくて、つらい思いをもう話したくないのかもしれないと思っています。おばあちゃんは、原爆の被爆者とは違って、身体には全く傷が残らなかったけれど、心には傷を抱えたままなのかもしれません。
おばあちゃんがたまたま忘れ物をしたから、おばあちゃんは助かり、お母さんが生まれることができて、私も生まれることができました。“再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。”という言葉に、もうあんな悲しいことが起こらないように、できることをコツコツとやっていきたいと思いました。
20140826
補足+feedlyのこと
【旧暦葉月二日 月齢 0.5 処暑 綿柎開(わたのはなしべひらく)】
だいぶ前に、現在の日本の結婚制度について感じている違和感を書いたことがあり、そのときの記事に、こんなふうに書きました。
*贈り物をして初めて、ヒトは人間になった:文化人類学者の小馬徹さんと考える贈り物の秘密
だいぶ前に、現在の日本の結婚制度について感じている違和感を書いたことがあり、そのときの記事に、こんなふうに書きました。
人間なのに嫁/婿に「やる」とか「ける」(秋田弁であげる)とか「もらう」とか、贈答品のやりとりみたいな言葉で結婚の話がされることに、幼い頃から違和感を感じていました。高校の倫理の授業で、部族の時代から女性は「ギフト」だという考え方があると指摘している人類学者のことを倫理の先生が話してくれました。一人の学者の指摘ですが、それは先ほど挙げた表現といい、確かに日本にもあると思いました。中学校の卒業祝いでもらった印鑑が、女子は苗字が変わるからという理由で下の名前、男子は苗字になっていて、すごく変だと思った記憶があります。今思えば、そういう刷り込みを教育現場でもやってしまうのは良くないことだと思います。高校の倫理の先生が話してくれた女性が贈り物であるという考え方について、文化人類学者の小馬徹教授が同様の内容を語っている記事を、ビッグイシューで見つけたので紹介したいと思います。
*贈り物をして初めて、ヒトは人間になった:文化人類学者の小馬徹さんと考える贈り物の秘密
(女性については“人類最初の贈り物は、女性!?”の見出しから)
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