20180925

孤独について

よき理解者だと思っていた人が実はそうではなかったということに、気がついてしまったときほど悲しいことはない。私を理解してくれる人はどこにもいない。そんな孤独感に襲われる。でも、最近、自分は孤独な存在なんだということを受け入れたら、少し気持ちが楽になった。

孤独はさみしい、なるべく孤独でないほうがいい、と思うから、苦しくなる。人という存在は、本来、唯一無二の個性を持った多様で複雑な存在。他者から完全に理解されるのは不可能だ。真実を知れば知るほど、自分であろうとすればするほど、孤独になる。他者を変えることはできない。変わるように促したり、きっかけを与えたりすることはできるとしても。だったら、自分が変わるしかない。「自分は孤独である」という前提に立って、「ではどうする?」と考えることにした。

振り返ってみれば、私は何かに「なじんだ」経験がない。いつもどこか浮いている感じがしていた。「変わってるね」と言われることが多かった。なじみたいとも思わなかった。それでも、まあ仲間はずれにされた期間がなかったわけではないけど、話をしたり、遊びに行ったりする友だちはそれなりにいてくれて、楽しいこともそれなりにあった。

完全に理解される経験というのはなかなかない。そうだと思っていた相手が、実は努力して合わせてくれていただけで、腹から理解してくれていたわけではなく、定型文にアレンジを加えながら話をテキトーに合わせていたということに気がついてしまったり、私が嫌だと思うことをしているのを見てしまったり、言っているのを聞いてしまったりしたときの落胆といったら、例えようがない。努力してくれるだけでもありがたいと思わないといけないのかもしれない。

世間の大多数と違うことをすると、「変わっている」と言われる。例えば、原発や環境破壊に反対だと言えば危険視され、健康上と環境への配慮から化学物質を避け、菜食にしていることがわかれば面倒くさがられたり、変人扱いを受ける。人間の平等を大切に考え、差別的な言葉づかいを避けていても変人扱いされる。化粧をするかしないかは個人の自由だと考え、私は化粧をしないが、それだけでも「女なのに失礼だ」と非難される個人の自由な生き方を尊重したいと考えていることがわかれば、少子化に悪影響だとか言われる(本気で少子化を心配しているなら、若者が安心して職業と子育てを両立して、人間らしい生活ができる社会をつくる努力をしてもらいたいものだ)。テレビが言っていることと違うことをすると変人だと言われるのが今の日本。どこにも居場所がないと感じる。

社会や環境に関心の高い人ならいいかといえばそういうわけでもない。そういう人と話していると、わかっている人がいた、と少しほっとする自分がいる。関心の低い人と話すときには、自分の考えを伝えるときに背景の事情やいろいろな論説など、どうしてもいろいろと説明しなければならなくなるし、スムーズにいかないので、共有できたとしてもごくわずかだし、わからなさそうな人には全く話せないのでもどかしさや疲れを感じることもある(相手の好きなゴシップ系の話題に付き合うしかないことも多い)。だけど、社会や環境に関心の高い人は、そうでない人を蔑んだり、バカにしたりすることもあり、そういう人だとわかってしまったときにはまたがっかりする。この人も違ったんだ、と。

自分が孤独な存在であるということを受け入れたら、誰かから理解されなくても別にいいやと思えるようになった。理解されたほうがそれはまあうれしいけど、理解されなくてもよくなった。それまでは、死にたいと思うことはたびたびあった。心の深いところでわかりあえない虚しさ。生き延びるためだけにしなければならない、数々のやりたくないこと。どうしてこんな居場所のない世界に生きていかなければならないんだろうとつらかった。でも、孤独なものなんだと理解したら、居場所なんかもともとないわけで、たまに居心地のよい場所があったらラッキー、理解されることなんかもともとないんだから、たまにわかってもらえることがあったらラッキー、そのくらいに思えるようになった。期待しないから、たまに理解されたり、なにか一部でも考えを共有できる人に出会ったり、そういったことで喜べればいいというふうに考え方が変わった。

完全に孤独かと言ったら、そうでもないような気もする。優れた音楽や書物には、私の気持ちや考えをずばり言い表してくれているものが見つかったりする。そういうものに触れたとき、さみしさがなくなり、救われたような気がするときがある。音楽や書物、活動家の勇気ある行動、言動、そうしたものがなかったら、たぶん、心は深く沈んだまま、もしかしたら死んでいたかもしれないな、と思うこともある。優れたミュージシャンや作家の中には、心の不調を抱えて精神薬を飲まされていたり、ドラッグに手を出してしまったりする人もいる。理解されない孤独に苦しんでいたり、繊細すぎて他者とうまくかかわれなかったりしたのかもしれない。そういう人は案外多いのかもしれない。

わかりあえなくても、私にできないことや苦手なことを手伝ってくれる人もありがたいし、相手の心の中に優しさやきれいな気持ちが見えて感動するときもあるし、私のことを気づかってくれることもありがたい。理解しあえるということにこだわらなくても、助けてくれる人がいることはありがたいことだ。人生、結局のところ、どれだけ楽しめるか、自分をどれだけ満たして、余剰分でどれだけまわりを幸せにできるか、どれだけ世界を自由で平和で平等にできるか、そういうことなのかもしれない。

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