20160620

何かに溶け込みたい?

「地域に溶け込みたい」「クラスになじめない」――こういった憂いの声を、移住してからときどき耳にするようになりました。

人間は社会的な生き物と言われますが、やっぱり、まわりとなじみたい、溶け込みたいと思うものなのだと思います。仲間はずれになったり、ヨソモノ扱いされるのが寂しいという気持ちも想像できます。

でも、別に無理をして、溶けこまなくても、なじまなくても、飛び抜けちゃえばいいんじゃないかな?って思っています。本来、人はそれぞれ、独特の、唯一無二の存在です。みんなと同じがよしとされる世の中だから、溶け込みたい、なじみたい、という欲求が生まれるのであって、本来の唯一無二の独特な存在が多数混在している、という状態がよしとされる世の中になれば、こういう欲求は生まれないのではないでしょうか。

私は、生まれた場所でさえも、なじんでいなかったし、溶け込めていませんでした。なので、この「溶けこんでいる」「なじんでいる」という感覚が、よくわかりません。生まれてからずっと世間では浮いた存在のままで、存在が許されなかった時期もまあ、あったはあったけど、それでも人生の大部分においては、存在を許されてきて、「尖ってる」「変わってる」「飄々としている」と言われることもありました。自分ではかなり凡庸な人間だと思うのですが。小心者ですし。

「コミュ障」(コミュニケーション障害の略。ネット用語で、コミュニケーションがうまくできない自分を卑下したり、そういう誰かをバカにしたりするときに使われる言葉のよう)という言葉を、最近見聞きするようになりましたが、まさしく、私は「コミュ障」だと思います。

でも、自分が自分のままで、ありのままでいようと思ったら、同調圧力が強くて、みんなと同じ、がよしとされるこの日本の社会の中では、誰だって「コミュ障」になるんじゃないかと思います。

私は私のままでいたいし、相手にも自分のままでいてほしい。

それでいて、合うところは合うし、合わないところは合わない、それでいいと思っています。「あなたはそう感じる、そう思うんだね」、「私はこう感じる、こう思う」、「うん、そういうのもあるよね」っていう、それでいいと思っています。だから、なじもうとも溶け込もうとも思わないし、なじませようとも溶けこませようとも思いません。

なじもう、溶け込もう、とするから、自分を曲げたりとか、何か自分に負担がかかって、自分が我慢して嫌々やるから、ほかの誰かにも同じ我慢をさせたくなる人も多い。なじまなきゃ、溶けこまなきゃ、という圧力は、今度は誰かに対して、お前もなじめよ、溶け込めよ、言い換えれば、ここのやり方に従えよっていう圧力をかけることになってしまう。

自分がした苦労は人にはさせたくない、っていう人ももちろんいるけど、そういう人はまだまだ稀有だと思います。奨学ローンにしても、「俺だって苦労して返してんだから、お前も苦労しろよ」っていう人のほうが断然多い。

だから、なじもう、溶け込もうとなんか、しなくていいと思う。なじんでいる、溶け込んでいることがよしとされるのは、政府とか権力者にとって、そのほうが御しやすくて、都合がよいからではないでしょうか? 

もちろん、受け入れられなかったり、仲間はずれにされたりしたら、ツライかもしれないけど、一人で飄々と我が道を行くのも、後々になってはよかったな、と思うものです。出る杭は打たれると言いますが、誰もハンマーで上から押さえつけられないくらいに突き抜けてしまえば、誰も打つことはできません。

結局、自分を幸せにするのは自分しかいないんです。まわりに合わせていて、自分が思う通りにできなくて、あとで後悔しても、まわりの人たちはだれも助けてくれません。不必要に敵をつくることはもちろん望ましくないとは思いますが、ムリしてまわりに合わせて、一緒に低レベルに収まったって、なんにもいいことはないのですから、なじめない、と思ったら、なじまなきゃと思うんじゃなくて、もはや突き抜けてしまえばいいと思います。

突き抜けてしまえば、まわりも、あの人はああいう人だよね、変わってるよねって思ってくれて、なじませよう、溶けこませようなんてしてこないもの。突き抜けた感性や能力があれば、人生を切り開いていけるし、世の中をよりよくするために使える強いツールにもなります。

*友人・知人のみなさまへ:もっとポップで愉快なサステナブルライフは、相方のブログ『珍妙雑記帖』をご覧ください(ネタがかぶるので、私のは濃ゆい話が多くなるのですー)。