楽しげなトークの途中で、「署名運動もやったし、デモにも行ったけど、なあーんにも変わらなかった! それで気づいたんです。暮らしが大切だって。暮らしが変われば、社会は変わるの」といったようなことを語っているのが聞こえた。数十人の参加者(女性のみ)はキラキラした憧れの眼差しで作家を見つめている。私は憧れが一気に冷めてしまった。
最近、ナチュラルライフに関心のある女性に人気の雑誌に、その有名作家がまた同じことを書いていて、そのときのことを思い出した。「署名もした、デモも言った、フェミニズムの運動にも関わった。でも、なんにも変わらなかった。暮らしが政治であり、暮らしが経済である。暮らしを変えれば、政治も経済も変わる」といったような主張だった。3年経って、世界を見渡せば社会運動が政治や社会に大きく影響を与えているというのに、まだ考えが更新されていないんだと思った。
署名活動やデモ、政治や社会問題に関する勉強会、サイレントスタンディング、ピースウォークなど、社会運動や政治に対する働きかけは、明らかに社会に影響を与えてきた。社会の変化に時間はかかる。それで何も変わらなかったように思えるのかもしれないが、抵抗していなかったら、もっと状況は悲惨だったかもしれない。運動を続けてくれている人がいるからこそ、まだマシな状況になっているというのに、社会運動は全く無意味というような言い方をされるので、今運動をしてくれている人たち、それから過去に運動をしてきてくれた人たちに申し訳ない気持ちになった。キラキラした目で見つめていたワークショップの参加者たちのように、この有名作家に憧れている人たちがその考え方を採用して、社会運動をする人のことを無意味だと見下したり、ブレーキになったりしないか不安にもなった。
望む社会を実現するために、暮らしでできることもあるし、ある程度は効果がある。オーガニックな世界を望むなら、オーガニックなものを選ぶ。環境と社会によいことをしている応援したいお店があるなら、そのお店でなるべく買い物をする。戦争を望まないなら、武器に投資している銀行に預金しない。原発のない世界を望むなら、原発に投資しておらず、再生可能エネルギーに投資している銀行に預金する。原発のない世界を望むなら、原発の電気を買わない、自分で発電する、電気以外のエネルギーを使う。ゴミを減らしたいと思うなら、自然に還る素材のものを修繕しながら長く使う。暮らしでできることは枚挙にいとまがないほどたくさんあり、全部やれば、そして、そういう人が増えれば、それは積み重なって社会を変革する大きな力になるとは思う。
だけど、社会運動を無意味だと否定するのは誤りだと思う。両方に意味がある。自分に、勇気、時間、体力、お金といったリソースが足りなくて、暮らしのことで手一杯だというのなら、社会運動をしてくれている人に対して、そんなものは無意味だと言ってやる気を削ぐのではなく、応援したほうがいい(逆も然りで、社会運動で忙しくて、文明の利器に頼らざるを得ない生活をしているなら、暮らしの面から変革をしようとしている人たちを蔑むのではなく、応援したほうがいい)。
ガンジーはたしかに、暮らしで抵抗することを広めた。人々に糸車を回して糸を紡ぐように勧めた。そして、支配国のイギリスから布を買わずにインドの人々が自ら作ることによって、イギリスへの依存を減らし、インドの独立につなげた。しかし、社会運動もやめなかった。両方があったからこそ、独立が達成された。どちらが優れているということではない。
外国だったから、というわけではない。日本で、上関原発が今なお建設されずに済んでいるのは、祝島に暮らす人々がデモなどの社会運動をずっと続けてきたからだし(参考書籍→『原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)』、紀伊半島に原発が建設されなかったのも、地元の住民の反対運動があったからだ(参考書籍→『原発を拒み続けた和歌山の記録』)。
暮らしを変えれば社会が変わるというのは、一面の真実ではあるが、だからといって社会運動を無意味だと言うのは、例えるなら、土作りだけに懸命になって、風や水なんかどうでもいいと言っているようなものだと思う。
風はどこからでも飛んでくる。近隣に汚染物質を出す施設ができてしまったり、政府の命令で汚染物質がまき散らされたりしたら、いくら土づくりを立派にしても、その土は汚染されてしまう。
水もいたるところでつながっている。いくら自分が汚さないようにしていても、上流で環境破壊があれば、水は汚れ、栄養も乏しくなる。水が枯渇して、出なくなることだってある。
仮に自分のところではきれいな水や空気が得られるとしても、ほかの多くの人が汚れた水や空気しか得られず、多くの生き物が汚染によってすみかを奪われたり、死滅したりしている、という状況で満足できるのか。
満足できるにしても、そのような闇が社会に闇が広がれば、いくら自分の住んでいる空間だけがきれいでも、治安が悪化したり、家族や友人や知人に災難が降りかかって悲しむことになったり、税金が上がって受けられる公共サービスは低下したり、なんらかの負の影響が自分の身にも起こる可能性は高まる。
暮らしだけやっていればいい、と、社会の問題に目をつむり、運動を無意味だと切り捨てていては、環境破壊や汚染に加担することになりかねない。土だけよくしても、風や水を軽んじていては、いい作物は育たない。いい空間を、次世代に残すことができない。
暮らしを変えるほうが得意な人もいれば、社会運動に関わるほうが得意な人もいる。どちらかが苦手でも、両方のアプローチを試みている人もいる。どちらも得意だという人もいるだろう。社会運動にも、暮らしにおける選択の積み重ねにも、どちらにも意味がある。政治も、経済も、暮らしも、芸術も、学問も、メディアも、あらゆるものはつながっている。それぞれ得意なところで持続可能な社会のためにできることをして、お互いに応援しあい、協力できるところは協力して、総合的に地球をよりよい場所にしていけたらと思う。
過去に雑誌『世界』でナオミ・クラインさんの『今そこにある明白な危機』を読んで思ったことを書いたが、そのときの記事から、ナオミ・クラインさんの言葉を再び引用したい。
(危機に)目を向けはするが、すべては自分自身からだと自分に言い聞かせ、瞑想をしたり、ファーマーズマーケットで野菜や果物を生産者から直接買ったり、車の運転をやめたりする―しかし、危機を不可避にしているシステムそのものを変えようとはしない。なぜならばそこには「悪いエネルギー」(筆者注:スピリチュアル系の人たちが言うところの負のエネルギー、ネガティブな力のようなものと思われる)が満ちていて、そんなことをしてもうまく行くはずがないから、と。実際、このようにライフスタイルを変えることは、解決の一部にはなるため、一見、問題に目を向けているように思えるかもしれない。だが、片目は固くつぶったままなのだ。(『世界』2015年12月号 p. 66より)
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