20180904

女性には「娘、嫁、母として」の役割がある?

自然となるべく調和し、手のしごとを大切にするていねいな暮らし方を何十年もしている女性が、女性には「娘、嫁、母として」の役割があり、縫い物をする時間はそうした役割から逃れて、本来の自分に戻れる時間、とエッセイに書いていた。年齢も60代くらいの方なので、そういう時代に生まれ育って、相当苦労したんだろうなぁと思った。

でも、今はもうそういう生き方をしなくてもいいのに、まだそれに囚われている感じで、すべての女性に対して、女性には娘・嫁・母の役割がある、縫い物をして自分に戻れ、という考え方を提唱しているような論調だった。同じ記事に、フェミニズムの運動もしていたことがあると書かれていたので、女性にジェンダー的役割を押し付けるのがよくないという考え方に触れたことはあると思う。それなのにこういうことを今の時代にまだ言っているというのは、その後、性差別主義に転向したのかもしれない。

私はつねに自分でいたい。他の多くの人たちにも、固定観念や世間につくりあげられた枠にはまりこまず、自分らしく生きてもらいたい。私はそう考えるので、強い反発を感じた。同時に、「ナチュラルライフ」に憧れる人たちへの影響も心配になった。そういう女性たちでこの人に憧れている人は多い。ほとんどの人は、憧れの人が言うことは、まるごと採用してしまう傾向が強い。

私もかつてはこの人にとても憧れていて、この人の書かれたものはよく読んでいた(好きだったから)。しかし、なかには強烈な違和感を覚える部分も多く(例:人生観を変えるために「看取り」をすべきとか、社会運動をしても世の中は何にも変わらないとか、弟子入りという上下関係を是としていたりとか)、憧れはだんだんしぼんでいった。暮らしを通じて、環境と社会になるべくよい行動をされているし、そのやり方も教えてくださるし、いい面ももちろんあるので、全否定しているわけではなく、尊敬している部分もある。賛成できない部分もあるというだけ。

女性にしかできないことは、こどもを体内で育て、出産することだけではないだろうか。こどもに母乳を与えるのも女性にしかできないかもしれないけど、難しい場合は粉ミルクなどもあり、これは男性でも与えられる。

生まれたときの性別で、自分の親に対しては「娘」の役割、パートナーとその親に対しては「嫁」の役割、こどもに対しては「母」の役割が、生まれながらに与えられているなんて、昔はそれが当たり前として押し付けられていたかもしれないけど、苦痛でしかない。それを好きな人もいるかもしれないけど、嫌だと思う人にも押し付けるのはおかしい。今は、これらにさらに、「会社内での役割」も入ってきている。こんな考え方は、古めかしいオッサン政治家からはよく聞くけど、まさか、この人からそういう言葉を聞くとは…と、すごく残念に思った。

「娘の役割」とはなんのことかよくわからない。金持ちで人柄のよい男に惚れられるように「美しさ」を磨くとか? 「花嫁修業」をするとか? 親の言いなりになるとか? 男に媚びるために美しさを磨くなんていうのは本当の美しさではないと思う。子として親を支えられるときは支えたいと思う。たびたび送金を頼まれることがあるが、それにもできる範囲で応じている。でもそれを「娘」の役割もしくは義務だとは思っていない。人として親が困っているから助ける、それだけのことだ。私が男=「息子」だったとしてもそれは同じだ。だが、親がたとえばわるい人間だったりとか、人として求めを受け入れられない場合は、子だからといって言いなりになるつもりはない。

「嫁」という言葉は大嫌い。字面からして「女」が「家」に縛り付けられている。家のなかの仕事は絶対に女がやるものという考えを押し付けてくる言葉だ。芸能人が最近はテレビで軽々しく「ヨメが」などと言うので、とくにかっこつけたがりの男性がよく「ヨメ」を連発する。非常に不愉快。女だからと家のなかの仕事をさせて当然。それを是として世に刷り込む言葉がこの「嫁」という語だ。

料理も洗濯も掃除も、一人で暮らしていたらだれだってするもの。男の人で得意な人もいる。男だから免除されて、女だからやって当然というのは変。別の本で、女性の著者が家事について書いていて、「ボタン付けは普通は妻の仕事だけど、夫は手先が器用なので自分でできることはどんどんやらせています」みたいなことを書いていてドン引きした。「普通は妻の仕事」ってなに? 「やらせている」ってなぜそんな上から目線? 「嫁」なんて都合のいい存在はいない。演じていても、どこかでほころびが出る。自分を押し殺して嫁を演じ続けて、暗い表情、不健康、自由に生きる女性に対する歪んだ感情、そういう女性がたくさんいる。

「母の役割」と聞いて思い浮かぶのは何か。子育てだろう。母乳を与えることは女にしかできないことだが、それ以外は男にもできる。ご飯を食べさせたり、お風呂に入れたり、おむつを取り替えたり、遊び相手になったり、だっこしたり、病気になったら看病したり、こどもの世話にまつわるさまざまなことは、世間では「母だから当然」と女にだけ押し付けられ、当然のこととされているけれど、それは母以外がやったっていいこと。生まれたときの生物学的な性別が女だったからと、自動的に子育てが得意とは限らない。

生まれてから子育てが終わるまでのほぼ半生を、「娘」「嫁」「母」として、世間が決めた役割を全うすべきと、女性は生まれたときの性別によって、生き方を決められてしまう。女性が持つ人間としての本来輝きはずっっと抑圧されてきた。今もほとんどの人が、「お母さんなんだから」とか、「女だから仕方ない」とか、本当の望みとは異なる生き方を選択している。そして、人生の前半をそうやって生きてきた女性は、今度は、若い世代の女性たちを抑圧する側にまわる場合が多い。自分もそうやって我慢してきたんだからと。

そんなふうにして、女性を押し込めてきた結果、この世に存在する男性と女性はほぼ半々なのに、政治の現場でも、経済の現場でも、決定に関わる人物は男性がほとんどを占め、ほとんど男性だけの意見で大事なことが決定されている。その結果、男も女も生命や人間性を大切にされない、こどもも育てにくい、戦争と競争で勝つことと金儲けだけがよしとされる世界が創り上げられてきた。それに気づいている人が増えてきている。

スペインでは最近、閣僚17人女性が11人となり、スペイン史上最多の割合となった。カナダでも、閣僚の男女比が同数になっている(トルドー首相はその理由を聞かれ「2015年だから」[もう2015年なのに男女平等が達成されてないのはおかしいでしょ、という感じ]と答えた)。ニュージーランドでも女性の首相が最近、当然の権利として産休をとった(副首相が代理を務め、重要な書類に目を通すなどできることは続ける)。世の中は大きく変わってきているのに、日本ではまだこんな古めかしいことを、比較的新しいライフスタイルを提案している人が提唱してしまうというのは非常に残念なことだ。

人生の大半の時間を「娘・嫁・母としての役割」に費やし、縫い物をするくらいのごくごくわずかな時間だけ自分に戻るなんて、自分を生きる時間が少なすぎる。世間から押し付けられている枠をなるべくとっぱらって、自分が本当に望むことをする時間をなるべく多くする。自由に自分らしく生きられる社会にするには、まずは自分が世間からの抑圧に負けずに、自分らしく生きることと、その実現を目指して自分にはできないことをやってくれている人を応援すること、そして、違うと思うことを我慢せずに表明することが大切なんじゃないかと思っている。

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