20130505

論理的に正しいからといって

昔、論理思考の訓練をしようと思って、
その世界ではかなり尊敬されている先生の著書を読んでみたら、
その先生が「論理は万能ではない」と言うので驚いた。

論理をそこまで極めて、いろんな人に教えている先生が
なんでそんなことを言うのだろうと不思議だった。

大学時代、英語ディベートの大会の手伝いをしたことがある。
相反するAとB、2つの主張について、
自分がどちらを正しいと思うかに関わらず、
くじ引きでAとBどちらの立場を論証するかを決める。

たとえば、心のなかでは「戦争に反対だ」と思っていても、
くじで「戦争に賛成だ」の立場になれば、
戦争に賛成する根拠とそれを支えるデータを並べて議論を戦わせる。
たとえ、審判も含め、そこにいるだれもが、
戦争はだめだと思っていたとしても、
論理的な強さが勝っていれば、戦争に賛成するほうが勝利するのだった。
命は大切である、人を殺すのは悪いことだ、などといった主張は、
概して「主観的」とされ、論理としては弱いらしい。

そのディベートの試合を見ていて、
あの論理思考の先生が言っていた意味がようやくわかった気がした。
論理的に正しいからといって本当に正しいとは限らない。

論理はどうにでも組み立てられるのということを知った。
だから、何を正しいとするか、それが間違っていたら、
恐ろしい主張が通ってしまう。それを目の当たりにした。

論理が不要だと思っているのではない。
正確なデータや事実をもとに論理的に正しく積み上げていって
正しい結論を導くのは大事なことだ。

しかし、倫理や世界観などになってくると、
何をもって正しいと言えるのかが難しくなってくる。
だから、論理以前に、心の修養が大切なのだということを知った。

命は大切である。
人は憎しみ合うのではなく、愛しあって生きるべきである。
私にとっては紛れもない真実に思えるのだが、
これらは論理で証明できるものだろうか。

こうしたものは、論理で説得するのではなく、
実感として心に刻むものだと思う。
それには幼い頃からの長い長い積み重ねが大切なのだろう。
おとなになってからでも、
生の声や現場に近い声をきちんと見聞きすることで
目を覚ますことができるのではないだろうか。

*念のため追記:
ディベート自体は本来、知的なゲームであり、
おもしろい遊びだと思っている。
給食とお弁当どっちがいいか、ベットとふとんどっちがいいか、
先生は友だちみたいなほうがよいか、など、
どっちでもいいようなことを題材に論理を組み立てて遊ぶ
純粋な知的ゲームとしてのディベートはおもしろかった。