20130505

なにを信じるか

知人から「水はすべてを知っている」という本を貸してもらった。
水にさまざまな言葉や写真を見せたり、話しかけたり、
音楽をきかせたり、電子レンジに入れてみたり、と
さまざまなことをして凍らせるとどんな結晶ができるのか実験したもので、
結晶の写真とともにその水に何をしたかが示されている。
「愛と感謝」という言葉を見せた水が一番きれいな形の結晶になっていた。

この本をいろんな人に見せると、
「すごいすごい、人間も70%は水だもんね、
 いい言葉をかけるように気をつけよう」と
自分の生活に前向きな変化をもたらそうと言う人と、
「え? 見せただけで? そんなことあるかなぁ。
 なんか仕組んでるんじゃないの~」
と疑う人とほぼ二つに分かれた。
普段していることから推測しても、なるほど、と思う反応だった。
ひとは信じたいものを信じるようにできている、と思った。

私自身は、こういうことも起こるのか、と思い、
信じたところで害はなく、
むしろ日頃の行いが良くなりそうだから、
信じておこう、と思った。
水が言葉の持つエネルギーを写しとっているのだとしたら、
実験をする人の心の持ちようも波動としてキャッチしている、
だから、疑いながら実験したら結晶に変化は表れないのではないか、と思った。

ひとは信じたいものを信じるようにできている、と思うことは、
ほかにもいろいろある。

私が健康のためにしていることは、
ほとんどの人がふだんしていることとは違うようだ。
普段していることが間違っていると思いたくない、
その気持ちは自然なものだと思う。
だから、食生活や現代社会の健康リスクなどを話すと、
たいていの人は訝しげに聞いている。
「科学的でない」と言われることもある。

私も昔は医者にもクスリにも頼らない暮らしというのは、
なかなか信じられなかった。
病気をしたら医者に行くのは当然だと思っていたし、
クスリを早めに飲むのも肝心だと思っていた。
それが間違っていたとは思いたくなかった。
小さいときにワクチンを打ったので、
それが間違っていたとは思いたくなくて、
ワクチンの負の側面も信じがたいことだった。

でも食べ物を自然に沿ったものにしてから、
病気にほとんどかからなくなり、
病気になっても食養で根本から治るのを身体で知り、
やっと医者にもクスリにも頼らない暮らしが信じられるようになった。

もうだいぶ昔のことだが、かつて同窓生に
「学力が足りないほうがお金が足りないよりも深刻だ」
と言われてがっかりしたことがある。

高校時代、「お金がないから大学進学は無理だ」と諦めていた。
それでももしかしたら、お金の問題は解決するかもしれない、
そのときに入りたい大学に入れるように、勉強しておいてみよう、と
入るあてもなかったが、勉強は続けていた。

結局大学には入れないかもしれないのに
学業と家業の両立のために、朝2時起きで勉強し、
休み時間も「ガリ勉」と言われながら机に向かうのは
なかなかつらいことだった。
どこの大学を受けようかなぁと現実的に迷うことができる
多くの同窓生が内心うらやましかった。

そんな同窓生のひとりに言われた
「あなたはお金が足りなくて大学に行けないのだろうけど、
 私は学力が足りなくて大学に行けないんだから。
 そんなアタマで大学に行けないなんて、聞きたくない」
という言葉には少し傷ついた。
「どうして? 学力なら自分次第でどうにでもなるじゃない。
 お金の問題は高校生の私にはどうにもならないんだよ。」と答えたら、
その人は「努力できるのだって才能」だ、
自分にはそれがない、というようなことを言った。

その人は、自分を弁護するために
「努力できないのは、努力する能力が生まれつき欠けているから」
という考えに縛られていたのだろう。
信じたいことを信じるのは仕方ないけれど、
つまらない考えに縛られてしまうのはもったいないと思う。
あのときは自分のことしか見えていなかったが、
だれだってやろうと思えば努力できるんだということを
実感として蓄積していってもらえるような
働きかけができたらよかったと今では思う。

余談だが、「努力できるのも才能のうち」という言葉は、
陶芸家の硲伊之助氏の「努力できることが才能である」
という言葉がさまざまに解釈されるうちに生まれたようだ。
この言葉が、努力できるかどうかは生まれながら決まっている
という意味で言われたものだとは私には思えない。
努力が才能をつくるという意味だと私には思える。

信じたいという気持ち。
それが保身から出たものであれば、
真実に背を向けている場合がある。
固定観念にとらわれずに、真実に近づくためには、
まっさらなこころでさまざまなことを体験して、
実感を重ねていく必要があると思う。