20130506

直感と印象

直感もしくは感覚と印象は、似ているようで相異なるもの。

そう思うようになったのは
「感覚的で論理的じゃない、だから正しいと思えない」
というだれかの批評がきっかけだった。

初めはなぜ感覚的だと正しくないのか、
論理的だと正しいと言えるのかがわからなかった。
とりあえず「そうですか」と受け取るしかなかった。

しばらく考えて、論理が万能でないということはわかった。
感覚のほうは?

「感覚的で正しくない」と言われるのは、
厳密には「印象」や「思い込み」のこと
を言っているのだと思った。

「印象」と「思い込み」は、頭の動き。
人間に見えている世界はごくわずか。
そのわずかななかで得た情報などを
まだ頭のなかで留めているうちは「印象」であって、
それを論理や言葉でそれなりにつなぐと「思い込み」になる。

感覚や直感というのはそれとは違う。
感覚や直感は、心の動き。
頭で処理するさまざまな情報を
自分ならどう思うか、どう感じるだろうか、と
何度も何度も反芻するうちに、
情報から得た印象は実感として心に降りてきて蓄積され、
感覚や直感を強化するのだと思う。

そして、感覚や直感は、
視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚と同じように、
生まれつき備わっているもの。
なにか偉大な不思議な存在が私たちにくれたもの。
すべてが見える偉大な不思議な存在の目が見ている真実を、
わずかな世界しか見えない人間が察知できるように
心に備えられたセンサーのようなものだと思う。

アメリカの先住民族ホピ族が、
ウランのことを警告した予言が出てくる。
「母なる大地から心臓をえぐり出してはならない
それは灰の詰まった瓢箪と化し、やがては世界を破滅に導く」
(ウランだけではなく、土を掘ってえぐり出す、
 ほかの鉱物についても言っているのかもしれないが)

科学や論理を駆使しない彼らが、
直感で得た予言のほうが正しいということは、
原子爆弾や、チェルノブイリ、スリーマイル、
東京電力福島第一原発での事故などで
まざまざと見せつけられたはずだが、
まだ目を覚まさない人もいる。

日本であれだけの大災害を引き起こし、
今なお、苦しんでいる人々がいて、
暮らしへの不安が日本だけでなく
世界中に広がっているというのに、
科学や論理では、未だに結論が出ていないようだ。

頭のざわめきを静かにすると
心の声が聞こえてくる。
それが感覚や直感だと思う。
私自身はこれまで、直感を信じて間違ったことはなかった。
間違うときは印象や思い込みに囚われているか、
誤った前提にたって論理を組み立てた場合だった。

 映画「イエローケーキ ~クリーンなエネルギーという嘘~」の監督インタビューがこちらに掲載されています↓
http://www.cataloghouse.co.jp/2012spring/yomimono/genpatsu/002/