20130511

福島の子どもたちと遊んで

福島県二本松市に住んでいる親御さんから、

「県外保養は、子どもたちだけでなく、親たちにとっても心の保養になっています。
全国の人々が福島の子どもたちを守ろうとしてくれているんだ、
自分たちは見捨てられているわけではないんだ、と思えるから」

というお話をうかがい、何かしたいという思いが強くなっていました。

何かしたいと思っても、一部屋の借り家住まいでは、
個人的に家に受け入れることは難しいし、
ほかに何かできることないかなぁ、と思っていたちょうどそのときに、
キッズデイ・ウィークエンドのボランティア募集のお知らせが
Facebookで流れてきたのでした。

本格的なボランティア活動は初めてで、
ちょっと勇気がいりましたが、
やってみてわかることが本当にたくさんあって、
一歩踏み出す後押しをしてくれた、
あの二本松の親御さんにとても感謝しています。

郡山市から来てくれた小学生のみんな。
私のグループは、2年生から4年生の男の子たちでした。

公園にいるカラスを追いかけまわしたり、
噴水が大きく水を噴き上げるようにと、
「がんばれ、がんばれ、噴水さん!」と大声で応援したり。
大人には思いもつかない遊びを思いついて、
元気に駆けまわるみんな。

慢性的な被曝に加え、
福島では外での活動が制限されているため、
運動不足が深刻なこともあり、
事務局の方から、
「疲れやすいので気をつけてあげてください」
と聞いていましたが、元気すぎて付いて行くのがやっとでした。

こんなに元気いっぱいで、感受性も発想も豊かなこの時期に、
毎日は元気を出しきれずに限られた活動しかできないなんて、
もったいなくて気の毒で、
原発に対して何の責任もない子どもたちが、
どうしてこんな目に遭わないといけないのだろうと、
すごく心が痛かったです。

汚染のないところで少しでも過ごせること、
きっと喜んでくれているだろうな、と思っていたのですが、
ツアーが始まるなり、「あー帰りて―!」の連発。

それはそうだよなぁ。私だって家がほっとする。
たまの旅行なら楽しいけど、しょっちゅうだと疲れる。
せっかくのお休みの日を、一番落ち着く家で過ごせないなんて。
勉強も気になっているみたいで、リュックには宿題が入っていました。

喜んで来ているのではなく、大変な思いで来ているのだとわかって、
楽しんでもらえるといいなくらいの甘い気持ちから、
ほんの少しでも来てよかったと思ってもらえるようにがんばろう、
という気持ちに変わりました。

故郷が放射能で汚染されてしまい、
被曝による身体へのダメージを修復して
大事に至らないようにするために
定期的に故郷を離れなければならない福島の子どもたち。
何も知らずに、
「そんなにいいところにしょっちゅう行けるなんて、
 原発さんにありがとうと言わないとね」
などという心ない言葉をかけてしまう大人もいるそうです。
マスコミがちゃんと報道してくれないという問題もありますが、
直の体験、生の声を聞く機会を欠いてしまうと、
理解不足から人を傷つけてしまうことがあるんだと思いました。

子どもたちから学ぶことは福島の現状にとどまらず、
人間としての根本的なことにも示唆をたくさんくれました。

20130507

平和を希求したのはやっぱり日本人だった

中学でだったか、高校でだったか忘れましたが、
憲法が好きでなのか、記憶力の訓練だったのか、
放課後になると、黒板に憲法の全文を
そらで書いている男子がいました。

なぜだったのかは、きいたことがないのでわかりません。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とか
ブツブツ言いながら書くのを横で聞いていて、
なかなかいい憲法だなぁ、日本っていいなぁ、と思った記憶があります。

憲法についてはその程度しか思い入れがなかったのですが、
自民党と維新の会が改憲に向けた動きを本格化するなかで、
そんなのまずいんじゃないか、と思い、調べるようになりました。

よく、占領軍に押し付けられた憲法だとか言われていますが、
私には感覚的にすごくなじむ憲法で、
日本的で情緒的で、アメリカの人が作ったなんて、
本当かなぁ?と思っていました。

その謎がやっと解けました。
憲法9条を入れたのはやっぱり日本人だったのでした。
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)さんという方が、
9条は「長い間僕が考えた末の最終的な結論」と語っている
憲法調査会の資料がありました。

環境活動家の田中優さんのメールマガジンで
触れられているので、ぜひ読んでいただけたらと思います。
http://tanakayu.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html
憲法を変えてしまうとどうなるか、優さんの考察も書かれています。

私は田中優さんの、自分は自分の頭で考えて判断する、
ほかの人にも、自分の頭で考えてほしいという姿勢がとても好きです。

新聞でも見出しのつけかたでだいぶ印象が違うし、
同じ事件でも、こっちの新聞には書かれていて、
そっちの新聞には書かれていない、ということが多々あり、
どの情報を出してどの情報を引っ込めるかでも、
主たるメッセージが異なってきます。

大きなメディアが言うからとか、
専門家が言うことだから、とか、
だれかの意見を盲信するのではなくて、
一度、自分の頭でよく考えて、どう感じるか心にきいて、
腑に落ちないところがあれば、
一次ソースをあたるなど、徹底的に調べ、
自分の考えを持つことが、
今の世の中を生きていくうえでは、
とても大切なことだと思っています。

【参考】
1%の既得権益者のための社会ではなく、
99%の国民のためになる社会をつくろう!という
市民団体プロジェクト99%では、
自民党の憲法改正案について、イラストつきで
わかりやすく解説した資料を用意しています。
こちらからご覧になれますので、見てみてください。
プロジェクト99 「こんなに危険!~自民党の憲法改正草案」


ほんとは原っぱで寝そべったり、
ぼーっとしてのんびり過ごしていたいけど。
こんな世の中だから、そういう努力を怠っては、
たいへんなことになってしまうんだ。
むちゃくちゃな未来を生きたくない。
こどもたちに、まごたちに、そんな未来を残したくない。

20130506

直感と印象

直感もしくは感覚と印象は、似ているようで相異なるもの。

そう思うようになったのは
「感覚的で論理的じゃない、だから正しいと思えない」
というだれかの批評がきっかけだった。

初めはなぜ感覚的だと正しくないのか、
論理的だと正しいと言えるのかがわからなかった。
とりあえず「そうですか」と受け取るしかなかった。

しばらく考えて、論理が万能でないということはわかった。
感覚のほうは?

「感覚的で正しくない」と言われるのは、
厳密には「印象」や「思い込み」のこと
を言っているのだと思った。

「印象」と「思い込み」は、頭の動き。
人間に見えている世界はごくわずか。
そのわずかななかで得た情報などを
まだ頭のなかで留めているうちは「印象」であって、
それを論理や言葉でそれなりにつなぐと「思い込み」になる。

感覚や直感というのはそれとは違う。
感覚や直感は、心の動き。
頭で処理するさまざまな情報を
自分ならどう思うか、どう感じるだろうか、と
何度も何度も反芻するうちに、
情報から得た印象は実感として心に降りてきて蓄積され、
感覚や直感を強化するのだと思う。

そして、感覚や直感は、
視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚と同じように、
生まれつき備わっているもの。
なにか偉大な不思議な存在が私たちにくれたもの。
すべてが見える偉大な不思議な存在の目が見ている真実を、
わずかな世界しか見えない人間が察知できるように
心に備えられたセンサーのようなものだと思う。

アメリカの先住民族ホピ族が、
ウランのことを警告した予言が出てくる。
「母なる大地から心臓をえぐり出してはならない
それは灰の詰まった瓢箪と化し、やがては世界を破滅に導く」
(ウランだけではなく、土を掘ってえぐり出す、
 ほかの鉱物についても言っているのかもしれないが)

科学や論理を駆使しない彼らが、
直感で得た予言のほうが正しいということは、
原子爆弾や、チェルノブイリ、スリーマイル、
東京電力福島第一原発での事故などで
まざまざと見せつけられたはずだが、
まだ目を覚まさない人もいる。

日本であれだけの大災害を引き起こし、
今なお、苦しんでいる人々がいて、
暮らしへの不安が日本だけでなく
世界中に広がっているというのに、
科学や論理では、未だに結論が出ていないようだ。

頭のざわめきを静かにすると
心の声が聞こえてくる。
それが感覚や直感だと思う。
私自身はこれまで、直感を信じて間違ったことはなかった。
間違うときは印象や思い込みに囚われているか、
誤った前提にたって論理を組み立てた場合だった。

 映画「イエローケーキ ~クリーンなエネルギーという嘘~」の監督インタビューがこちらに掲載されています↓
http://www.cataloghouse.co.jp/2012spring/yomimono/genpatsu/002/

直の体験

日頃、パソコンの前に座って、
調べ物をしてまとめたり、
書物をしたりする仕事が多い。

パソコンの前に座っていると、
インターネットでなんでも調べられていると錯覚して
なんでもわかったような気になってくる。
なんだか自分がすごいやつになったような気がしてくる。
いかん、いかん、悪い兆候だ、と自分を戒める。

最近、「偉いさんの肩書きがついていた人のなかには
会社を定年退職したあとでもまだ偉い気がとれなくて
横柄な態度をとる人もいる」という話をきいて、
会社など限られた世界にいても、気をつけないと、
パソコンの前と同じようなことが起こるのかもしれないと思った。

私にとっては、直の体験をすることが、
そういう悪い心にガツンと衝撃を与えて、
謙虚な心を取り戻させてくれるいい薬になっている。

たとえば市(いち)などで、出店者さんや
たまたま居合わせたお客さんと話をするなど、
人と人との直のコミュニケーションをとると、
全然だめだ、まだまだ人間の修行が足りない、と反省できる。

畑に行って野菜を見ていると、
わからない不思議なことがいっぱいある。
朝と昼と夜で全然表情が違う。
無数の生き物の不思議な営みのなかで
野菜が育って、それを食べることができて
自分が今ここで生きているのが不思議になる。

自分に見えている世界がごくわずかであることを思い知る。

山に行ってみるとますますわからないことだらけだ。
暖をとったり煮炊きするのに必要な焚き火も
教えてもらってはじめてできるようになった。
できるようになったと言っても、
まだ火を起こすことすらできないし、
焚き火を絶やさないようにするのもたいへんだ。
大きな虫はまだ怖いし、蛇に噛まれたらどうしたらいいかもわからない。

生きていくために必要なことすらできないひ弱な自分を思い知る。

自然と人。
生きていくうえで関わりあう存在との直の体験。
それによって自分を知り、謙虚さを取り戻す。
その体験をなるべく身近にしておきたい。

20130505

なにを信じるか

知人から「水はすべてを知っている」という本を貸してもらった。
水にさまざまな言葉や写真を見せたり、話しかけたり、
音楽をきかせたり、電子レンジに入れてみたり、と
さまざまなことをして凍らせるとどんな結晶ができるのか実験したもので、
結晶の写真とともにその水に何をしたかが示されている。
「愛と感謝」という言葉を見せた水が一番きれいな形の結晶になっていた。

この本をいろんな人に見せると、
「すごいすごい、人間も70%は水だもんね、
 いい言葉をかけるように気をつけよう」と
自分の生活に前向きな変化をもたらそうと言う人と、
「え? 見せただけで? そんなことあるかなぁ。
 なんか仕組んでるんじゃないの~」
と疑う人とほぼ二つに分かれた。
普段していることから推測しても、なるほど、と思う反応だった。
ひとは信じたいものを信じるようにできている、と思った。

私自身は、こういうことも起こるのか、と思い、
信じたところで害はなく、
むしろ日頃の行いが良くなりそうだから、
信じておこう、と思った。
水が言葉の持つエネルギーを写しとっているのだとしたら、
実験をする人の心の持ちようも波動としてキャッチしている、
だから、疑いながら実験したら結晶に変化は表れないのではないか、と思った。

ひとは信じたいものを信じるようにできている、と思うことは、
ほかにもいろいろある。

私が健康のためにしていることは、
ほとんどの人がふだんしていることとは違うようだ。
普段していることが間違っていると思いたくない、
その気持ちは自然なものだと思う。
だから、食生活や現代社会の健康リスクなどを話すと、
たいていの人は訝しげに聞いている。
「科学的でない」と言われることもある。

私も昔は医者にもクスリにも頼らない暮らしというのは、
なかなか信じられなかった。
病気をしたら医者に行くのは当然だと思っていたし、
クスリを早めに飲むのも肝心だと思っていた。
それが間違っていたとは思いたくなかった。
小さいときにワクチンを打ったので、
それが間違っていたとは思いたくなくて、
ワクチンの負の側面も信じがたいことだった。

でも食べ物を自然に沿ったものにしてから、
病気にほとんどかからなくなり、
病気になっても食養で根本から治るのを身体で知り、
やっと医者にもクスリにも頼らない暮らしが信じられるようになった。

もうだいぶ昔のことだが、かつて同窓生に
「学力が足りないほうがお金が足りないよりも深刻だ」
と言われてがっかりしたことがある。

高校時代、「お金がないから大学進学は無理だ」と諦めていた。
それでももしかしたら、お金の問題は解決するかもしれない、
そのときに入りたい大学に入れるように、勉強しておいてみよう、と
入るあてもなかったが、勉強は続けていた。

結局大学には入れないかもしれないのに
学業と家業の両立のために、朝2時起きで勉強し、
休み時間も「ガリ勉」と言われながら机に向かうのは
なかなかつらいことだった。
どこの大学を受けようかなぁと現実的に迷うことができる
多くの同窓生が内心うらやましかった。

そんな同窓生のひとりに言われた
「あなたはお金が足りなくて大学に行けないのだろうけど、
 私は学力が足りなくて大学に行けないんだから。
 そんなアタマで大学に行けないなんて、聞きたくない」
という言葉には少し傷ついた。
「どうして? 学力なら自分次第でどうにでもなるじゃない。
 お金の問題は高校生の私にはどうにもならないんだよ。」と答えたら、
その人は「努力できるのだって才能」だ、
自分にはそれがない、というようなことを言った。

その人は、自分を弁護するために
「努力できないのは、努力する能力が生まれつき欠けているから」
という考えに縛られていたのだろう。
信じたいことを信じるのは仕方ないけれど、
つまらない考えに縛られてしまうのはもったいないと思う。
あのときは自分のことしか見えていなかったが、
だれだってやろうと思えば努力できるんだということを
実感として蓄積していってもらえるような
働きかけができたらよかったと今では思う。

余談だが、「努力できるのも才能のうち」という言葉は、
陶芸家の硲伊之助氏の「努力できることが才能である」
という言葉がさまざまに解釈されるうちに生まれたようだ。
この言葉が、努力できるかどうかは生まれながら決まっている
という意味で言われたものだとは私には思えない。
努力が才能をつくるという意味だと私には思える。

信じたいという気持ち。
それが保身から出たものであれば、
真実に背を向けている場合がある。
固定観念にとらわれずに、真実に近づくためには、
まっさらなこころでさまざまなことを体験して、
実感を重ねていく必要があると思う。


論理的に正しいからといって

昔、論理思考の訓練をしようと思って、
その世界ではかなり尊敬されている先生の著書を読んでみたら、
その先生が「論理は万能ではない」と言うので驚いた。

論理をそこまで極めて、いろんな人に教えている先生が
なんでそんなことを言うのだろうと不思議だった。

大学時代、英語ディベートの大会の手伝いをしたことがある。
相反するAとB、2つの主張について、
自分がどちらを正しいと思うかに関わらず、
くじ引きでAとBどちらの立場を論証するかを決める。

たとえば、心のなかでは「戦争に反対だ」と思っていても、
くじで「戦争に賛成だ」の立場になれば、
戦争に賛成する根拠とそれを支えるデータを並べて議論を戦わせる。
たとえ、審判も含め、そこにいるだれもが、
戦争はだめだと思っていたとしても、
論理的な強さが勝っていれば、戦争に賛成するほうが勝利するのだった。
命は大切である、人を殺すのは悪いことだ、などといった主張は、
概して「主観的」とされ、論理としては弱いらしい。

そのディベートの試合を見ていて、
あの論理思考の先生が言っていた意味がようやくわかった気がした。
論理的に正しいからといって本当に正しいとは限らない。

論理はどうにでも組み立てられるのということを知った。
だから、何を正しいとするか、それが間違っていたら、
恐ろしい主張が通ってしまう。それを目の当たりにした。

論理が不要だと思っているのではない。
正確なデータや事実をもとに論理的に正しく積み上げていって
正しい結論を導くのは大事なことだ。

しかし、倫理や世界観などになってくると、
何をもって正しいと言えるのかが難しくなってくる。
だから、論理以前に、心の修養が大切なのだということを知った。

命は大切である。
人は憎しみ合うのではなく、愛しあって生きるべきである。
私にとっては紛れもない真実に思えるのだが、
これらは論理で証明できるものだろうか。

こうしたものは、論理で説得するのではなく、
実感として心に刻むものだと思う。
それには幼い頃からの長い長い積み重ねが大切なのだろう。
おとなになってからでも、
生の声や現場に近い声をきちんと見聞きすることで
目を覚ますことができるのではないだろうか。

*念のため追記:
ディベート自体は本来、知的なゲームであり、
おもしろい遊びだと思っている。
給食とお弁当どっちがいいか、ベットとふとんどっちがいいか、
先生は友だちみたいなほうがよいか、など、
どっちでもいいようなことを題材に論理を組み立てて遊ぶ
純粋な知的ゲームとしてのディベートはおもしろかった。