「ものづくり、されてるんですか?」
数年前、初めて入ったおしゃれなコーヒーショップで代金を払っていたとき、店主さんにかけられた言葉をときどき思い出す。
私のどこを見てそう聞きたくなったのかはわからない。小銭がないか財布のなかを探していると、不意に突然、さりげなく自然に、たずねられた。私はどう答えていいものか、迷ってしまった。
確かに、日々、ものは作っているが、自分で使ったり、プレゼントしたりするためのもので、これで生計を立てているわけではない。この店主さんはどう定義しているかわからないが、世間ではものづくりによって生計を立てていない限り、「ものづくり作家」を名乗ったら笑われるだろう。
『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』(内田樹・編/晶文社・刊)に、ミュージシャンの後藤正文さんが寄せた文章「君がノートに書きつけた一編の詩が芸術であること」を読んで、励まされた。
アメリカの作家カート・ヴォネガットさんの『国のない男』からの文章が引用されていて、何気ない鼻歌や友人にあてたメッセージ、日常のささやかなところに藝術は見いだせるし、作ることができる、それがだれかの喜びや創造の原動力やきっかけにつながることもある、というようなメッセージと受け取った(ぜひ後藤さんの文章そのもので読んでいただけたらと思う)。
「僕はみんなに、生活のなかに芸術を取り戻すための仲間になってほしい」という呼びかけに、エネルギーをもらった。私もそうありたいと思った。目指していることはこれだったのになあと思い出させてもらえた。へなっとしぼんでいた気持ちがもう一度しゃきっと元気を取り戻した感じがした。生活のなかで美しいものをつくること。それが自分のやりたいことだと実感した。
「生活のなかに芸術を取り戻すための仲間にな」るには、「断固として、僕や君がノートに書きつけた一編の詩や、心を込めて書いた手紙や鼻歌が、芸術であることを」自分で決めて信じることだという。「それは君の魂を解放して、自由にする」だけではなく、この世界のだれか他の人の魂を解放して自由にしている例も紹介されていた。自分はそう思ってきたつもりだったが、「断固として」という決意がちょっと足らなかったと思った。自分のこととなると、ちょっとしたことで揺らぎはじめてしまう。
暮しのなかに美しいものをつくりたいと思いながら、いつしか、マジョリティの感覚に流されて、自分の生活を彩るもの、言い換えれば売り物にはならないものをつくっていると、「こんなことしていていいのだろうか」と不安になってくるときがある。これでいいのだと言い聞かせても、もっと何かを極めて世間で通用するくらいになるための努力に時間を充てたほうがよいのではないかと頭の中の声に不安をかき立てられる。
「芸術はだれかが『芸術だ」と決めたものと思われることが多い」「芸術とそれ以外を区別する言葉や考え方が、芸術を特別な人たちのものにしようとする。そんな言葉を真に受けているうちに、生活のなかから、少しずつ芸術がなくなってしまったんだと僕は感じる」という指摘に、まさに、と頷いた。
世間で芸術だとされているもの、たとえば、美術館で展示されるような絵画や彫刻、上映されているような映画、受賞したりベストセラーになったりしているような小説、そういったものが世間一般では「これが芸術です!」とされ、芸術とそれ以外とを区別するなにかが世間にはあって、そういう姿勢が芸術を遠い存在にしてしまっていると、私も常々思う。世間一般で「芸術です」とされているものをいいと思えないとき、それは自分の中の芸術に関する知識や感性なんかが足りていないせいだと考え、その良さを理解しようと努力する人さえいる。
真夏の昼前、農作業の手を止めて、日陰で一休みしておしゃべりしている夫婦を見かけた。とても絵になる風景だった。これを写真に収めるなり、絵を描くなりして、世間的に認められたら、その作品は「芸術」とされるだろうが、作品に収めれた光景そのものは世間では「芸術」とはみなされない。ましてや、この2人が「芸術家」とは称されない。その芸術性を生んでいるのは、この2人の人間の普段の生活の積み重ねであるにもかかわらず。
美しい棚田の風景。これを絵画や写真にされて美術館に展示されたり賞を取ったりしたら芸術になる。絵を書いた人、写真を撮った人は芸術家、アーティストと称される。棚田を守っている人たちはアーティストとはされない。
毎日掃き清められた寺院の静かな庭。野生の植物がのびのびと存在感を放ち、トンボやツバメが飛び交う野趣あふれる庭。手入れの行きどといた彩り豊かな庭。そこに芸術性を見出した人間が、写真や絵画の題材にして世に発表し、世間で認められれば、その作品は「芸術」ということになるだろう。庭を作った人は「ガーデナー」と呼ばれることはあっても、「アーティスト」と呼ばれることはあまりないかもしれない。
自然の風景や野生の動物を美しい写真に収めれば、その写真は「芸術」と呼ばれるかもしれない。その風景やその野生の動物が住める環境を意識的に努力して作っている人たち、もしくは意識はしていないが、普段の生活が環境によいものであるために、その風景やその動物たちが住める環境を結果的に生んでいる人たちがいる。そういう人たちは世間一般では「芸術」を作っているとは考えられていない。
世間で認められるような芸術を作ろうという意図で作るものは、他人の視線を気にしながら作るものになり、自分の心の奥底から湧き上がってくるものの表現にはなりにくく、作っていても楽しくはない。
芸術を作ってやろうと思わずに、日々の営みのなかで、自分やだれか、ほかの生き物たちのことを思って繰り返される行動や生み出されるものによって現れる物質や光景は、芸術とは称されないかもしれないが、芸術と称されているものよりももっと美しさが感じられることもある。「これが芸術です!」とされているものよりもむしろ、そういうもののほうに魅力を感じる。
自分の感性を大切にすれば、本当に美しいものは身のまわりに溢れていることがすぐに分かる。世間一般の「これが芸術です」という声に惑わされなければ、自分で芸術を生み出すことができる。本当に美しいものを理解できる人間でありたいし、本当に美しいものを日々生み出せる人間になりたいと思った。