20190219

インスタグラムをやらない理由

インスタグラムという写真を共有するSNSがある。登録しなくても閲覧だけはできるので、すきなお店や作家さんの情報を得るのに、たまにのぞいている。

最近では、臨時休業や営業時間の変更も、インスタグラムだけで伝えているお店も多いので、訪問の前にインスタグラムを確認するようになった。

他人から「どうしてやらないの?」と思われていそうだなあと察知してしまうこともよくある。登録すらせずに閲覧しているだけでも、自分には無理だなとすごく思う。

友人が営むお店では、入荷した商品の情報や、作ってくれた人のストーリー、実際に使ってみた感想や、お店での心温まる出来事などを、インスタグラムでよく発信している。1000人以上のフォロワーがいて、そういった投稿につく「いいね」はだいたい二桁台。多くて90台くらい。しかし、妊娠中のお腹のアップの写真を載せたところ、あっという間に「いいね」が200を突破。パートナーの顔写真を投稿したときもあっという間に200近くに達していた。普段の2~3倍の反応。

友人はそれを見て喜んでいるかもしれないが、私は寒々しい気持ちになった。ほとんどの人は、店主がどういう気持ちでお店を運営しているのか、お店で取り扱う商品を選んでいるのかよりも、プライバシーに関わるようなゴシップネタに興味があるということを示している。コメントにも下世話な質問が並んでいる。友人はていねいに返事をしている。こんなくだらない人間の相手なんかしている時間がもったいないと、他人事ながら思ってしまう。

フェイスブックをすっぱり退会して3年になるが、フェイスブックさえなければ、すきでいられたのに、という人が結構いる。そう思ってしまう理由はいくつかあるが、特に大きかったのは子どもの写真を載せること。

子どもの写真を載せる人が多い。自分の写真は載せないのに、子どもの写真は載せる。子どもも、理解できる年齢であれば、写真を載せられるのは嫌かもしれない。自分の写真を載せるのに抵抗があるのなら、子どもも抵抗があるかもしれないとは思わない。その配慮のなさにがっかりする。

SNSの普及は欧米諸国のほうが早かったが、オーストラリアでは、18歳の女性が、自分が子どものころの写真を父親がSNSに投稿していて、削除するように頼んでも父親が削除しないので、父親を相手どって裁判を起こしたという(*)。日本でもそういう裁判の事例を耳にする日も遠くないかもしれない。

*参照:18-year-old sues parents for posting baby pictures on Facebook(USA TODAY 2016/06/16)

子どもの写真を載せることで、長期的にどんなリスクがあるかわからない。犯罪者からすれば誘拐のターゲットにしやすい。

今はリアルの誘拐だけではなく、デジタル誘拐もあるらしい。他人の子どもの写真を流用して自分の子どもとして紹介し、疑似子育て体験のストーリーを他人と共有するのだという。一人ターゲットを決めたら、その親は何も考えずにバンバン最新の子どもの写真を投稿するので、どんどん流用できる。それだけではなく、児童ポルノ好きの変質者の餌食になっている可能性もある。

写真には、位置情報や時間の情報もついているし、子どもの年齢や校区も明らかになりやすい。ビジネスや犯罪、政治などに個人情報が利用されるかもしれない。

ストーカーが現れたら、親が投稿した子どもの頃の写真を見つけるのはいともたやすい。

ネット上に載せた写真が、いつ・どこで・だれにダウンロードされたかが分かることはない。被害に遭っていても気が付かない。

子どもの写真をバンバン上げるというのは、大事な家族の危機管理に頭がまわらないという、その人の浅はかさを如実に表している。それを目にするにつけ、「ああ、この人もそういう人だったのか」とがっかりしてしまう。そういう親をもった子どもが気の毒になる。注意喚起のために指摘しようものなら、「だって、みんなやってるじゃん。気にし過ぎなんじゃないの」と憤慨されて、ますます嫌になる。

インスタグラムはフェイスブックよりも子どもの写真の投稿が多い。フェイスブックは知り合いが増えすぎて投稿しづらくなり、インスタグラムに逃げている人が多いようで、目が気になる人とつながっていないからと気が大きくなってバンバン上げてしまうようだ。フォロワーだけでなく、誰にでも公開にしてしまっている人も多い。

お店の宣伝に活用するとか、サイトの読者数を増やして収益率を上げるとか、ファンを増やして本を出版したいとか、そういう目的で活用するのであれば、インスタグラムを使うメリットはあるかもしれない。そうでもないのに、子どもや友人や知人といった自分以外の人たちのものも含めて個人情報を漏らしまくって、インスタグラムの会社にゴシップネタをタダで提供して広告費を儲けさせるのは、あほらしいと思う。

重要な問題を多くの人々に発信して社会をもっとよい方向に変えたいとか、そういう目的で活用するのもできるのかもしれないが、インスタグラムは不向きだと思う。インスタグラムは写真でぱっと見て分かりやすいもののほうがウケがいい。社会の問題や自然環境の問題とその解決策は、一言で説明するのは難しく、文章で丁寧に説明する必要がある。インスタグラムは写真がメイン。文章は疲れる、という感じでスルーされてしまう傾向にあると感じる。

社会問題ではないが、ブログの人気が高いある有名なクリエイターが、インスタグラムで独立して稼ぐ方法を画像化して発信してもほとんど反応がなかった。しばらくがんばって投稿を続けていたが、程なくして投稿は止んだ。同じことを文章でブログやnote(クリエイターと買い手が直接つながることのできるSNS)で書いていたらよく読まれているのに、インスタグラムだとここまでスルーされるのかと驚いた。

インスタグラムは、次々に興味を引かれる画像が流れてくるため、ずっと眺めていて中毒のような状態になっている人もよくいる。何を話しても「それ、インスタで見た」、「インスタで見たんだけど、ナニナニがドウコウして…」という人がここ数年で増えた。頭がすっかりインスタグラムに乗っ取られて、インスタグラムが「世界」のようになっていないか?と心配になることもある。インスタ中毒の疑いのある人と話していると、脳が怠惰になって、文字情報を処理する能力が落ちているのか、少し入り組んだ話をすると全然入っていかない。インスタグラムばかりやっていると、ぱっと見て分かるものしか理解できなくなり、思考力も判断力も鈍ってしまうのかもしれない。

インスタグラムに投稿されている写真は、全体の一部でしかない。楽しそうな写真、おいしそうな写真、おしゃれな服やおしゃれなインテリアやおしゃれな食器類の写真、そういったものが投稿されるだろうが、写真で入らない部分は見せられない状態になっているかもしれないし、写真で切り取っていない部分では楽しくはない時間を過ごしているかもしれない。

写真の与える印象は強く、写っていないところにまでは考えが及ばない。出来事や物事や人物は本来、多様な面が出たり隠れたり、大きくなったり小さくなったり、重なり合ったりめくれたり、複雑に変容を繰り返すものであるはずなのに、写真でぱっと見てわかるものばかりを見すぎていると、どんなことについても短絡的で一面的な捉え方しかできなくなるのではないかと思う。

写真には、ある事象が存在する背後に重なる無数の営みや存在が映らない。映らないということは存在しないということではないのに、インスタグラムを見ていると、多くの人は、うわっつらだけをなめて喜んで、ありがたかって、すぐに飽きて次に移っているように映る。そういう人が多いからと、投稿する側に立つ場合も単純に分かりやすくキャッチされやすい写真を載せる。一面的で短絡的なものの捉え方しかできなくなる、という悪循環に陥っているように思う。

そういう傾向を増すユーザーが多いプラットフォームで、ぶしつけで、無神経で、無遠慮で、配慮の足りないコメントを多々見かけるのも当然の成り行きなのかもしれない。前述のような仕事上のメリットでもあれば、まだ使う価値もあるのかもしれないが、今のところそういう目的もなく、インスタグラムを使う理由は思い浮かばない。煩わしい作業を増やす必要を感じない。「流行っている」「みんなやってる」という理由だけで、やる気にはなれない。流されて使っていると、知的に怠慢になりそうな気がする。

「なんでやらないの?」と聞かれても、「めんどうくさがりで」とか、「いそがしくて」とかでごまかすつもりだ。本気でやらせたいわけでもなく、だいたいそれで引き下がってくれるだろう。あまりにしつこく聞かれたら、率直に言ってしまうかもしれないが、そんな人はおそらく理解できないだろうし、自分が気に入って使っているものを侮辱されたと勘違いして怒り出すかもしれない。テキトーに言ってやりすごすのが得策だが、そればかりではモヤモヤが晴れず、本当のところはここに書いておくことにした。

)関連記事