20190205

物事をありのままに捉えることの難しさ

物事をありのままに捉えようとはよく言われるが、たやすいことではない。そう思わされる出来事が続いた。

先日、今住んでいる地域が地元の知人2人と話していて、今いる県の県民性の話題になった。県外の人間として、外から見てどう思うかを尋ねられたので、いい面もあまりよくない面も率直に話した。

スーパーで一度かごに入れたものの、やっぱりいらなくなったときに、もとの場所に返すのではなく、思いついた場所で返すようで、地産地消コーナーにアメリカ産の防カビ剤付きのレモンが混ざっていたり、牛乳がオリーブの実の塩漬けの上に乗っていたり、といったことをあまりにもよく見かけるので驚いたとか、車のスピードが制限速度の15キロオーバーが普通みたいでびっくりしたとか、地元の知人の家で開かれた集まりに呼ばれていったら車で来ている人たちも堂々とお酒を飲んでいてびっくりしたとか、そんなエピソードをざっくばらんに話した。どれも事実でしかなく、地元の人も地域情報誌の読者コーナーで同じようなことを投稿しているのも見たことがある。

すると、片方の人は「そういうとこあるよねー」と自分が経験したエピソードを話してくれたが、もう片方の人はむっとしてしまった。明け透けに話しすぎたのかもしれない。

共通の知り合いについて、必要があってその人のあまりよくない部分や行動についてありのままに語ると、「確かにそういうところはあって、私もこういうふうに気をつけている」とか、「そういうときもあるけど、反面、こういういいところにもなってるよ」などといった答えが返ってくることもあれば、憤慨する人もいる。「俺の好きなヤツを悪く言いやがって」と思っているのだと思う。むっとして黙り込んだり、明らかに嘘だと分かるような反論を並べたり…。

自分が属している集団(会社、通っていた学校、生まれ育った市町村や都道府県や国など)のことを悪く言われたら、自分も悪く言われているような気がするのかもしれない。でも、その集団を構成している一人ひとりは全く異なる個人である。自分が悪く言われたわけでは絶対にない。もし自分にもそういう部分があると自覚していて、それが望ましくないことだと自分でも思うのであれば、望む方向へ変わるように心がけていけばいいだけのことではないのだろうか。

自分が好意的に評価している人物について、あまりよくない評価をされて怒る人には、今まであまり出会ったことがなかった。ジャイアンツファンの人がジャイアンツのよくない評価を聞いてカッとなったり、阪神ファンの人が阪神タイガースの改善点を指摘されて苛立ったりするのとよく似ているのかもしれない。そういう人に対して、野球の話は避けるに越したことはない。

完璧に全部が全部いいところばかりの人間や集団など、めったにいない。あまりよくないところもあれば、いいところもあるというのが普通だろう。あまりよくないところを指摘されて怒るというのは、物事をありのままにまっすぐ見られていない証拠だと思う。結局、目をつむってきたあまりよくない部分が、後々になって大きくクローズアップされるような出来事に出くわして、その部分だけが肥大して、相手のことを好きではなくなってしまう場合もある。相手や所属する集団との関係を心地よく続けていきたいと思うのなら、よいところだけを見ようとして、あまり望ましく部分には目をつむり続けたり、矮小化したりするのではなく、常にありのままを捉え、気をつけるべきところには気をつけ、言うべきことは言って、適度な距離を保つのが賢明ではないだろうか。

本当に素晴らしいと、非の打ち所がないと自分が思っている人物や集団について、だれかから改善したほうがよいと思われる点を指摘されても、本当に非の打ち所がないと思っているのなら、堂々と否定すればいいだけのこと。怒ったり、むっとして黙りこくるというのは、自分の鑑識眼に対する自信のなさの表れなのだろう。

自分が所属する集団や自分が好意的に評価している人物と、自分が同化してしまっていたり、その境界線がぼやけてしまっていたりする場合、自分のことをわるく言われているような気になって、怒り出すのかもしれない。自分についてもそれが当てはまると思うのなら、我が身を振り返って、改善したいと思うのであれば改善すればいいだけだ。しかし、それができない。改善すべきところなど、ないことにしてしまいたいのかもしれない。それは、自分自身に対する信用、自信のなさから来ている怒りなのだろう。少しずつでも良くなっていこうと思うのなら、まずはまっすぐにありのままを見つめる必要がある。それができないのは、自分を信じることができていないからなのかもしれない。

そういう人に、いくらありのままを見ろと言っても無理なのだと思う。少しずつ、まずは自信をつけていってもらうしかない。そういう人との会話では、いくら真実であっても、なるべく厳しい話は避けて、おだてるでも、持ち上げるでもなく、いいところについて思っていることを伝えて、いいところを伸ばして行けるような工夫が必要だと思う。

物事を自分はありのままに見つめながらも、相手に伝えることは様子をよく観察して精査するというのも、なかなか難しい技術だ。相手に何を伝えるかに集中しすぎると、相手に合わせていいところだけを拡大し、改善したほうがよさそうなところについては矮小化したり、歪曲したりしてしまいがちだ。かといって、ありのままをまっすぐに見ていると、真実がつい口からこぼれてしまう。

「真実を言うときには気をつけろ」という格言を思い出した。ほとんどの人は真実をありのままには見ていない。虚構を信じていたり、自分が作り上げた虚像を崇めていたりする。真実を述べることは、ほとんどの人が持っている既存の知識体系に挑戦することに等しい。だいたいの人が怒ったり、嫌がらせをしだしたりする。それだけ、真実をありのままにまっすぐ見るというのは厳しいことなのかもしれない。

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