季刊書籍『自然栽培』のvol. 15 |
載っていた、さとうみつろうさんの連載コラム『みっちゃんのイイモノひろめ隊』でこんな下りがあった。
78歳になる元気な母がいる。心底うなずいてしまった。
〈中略〉
急に自然栽培の野菜を購買し始めた息子の僕に、こういった。
「なんでこんな高い野菜を買うわけ?」
「野菜は、なんでも同じさぁ~。もったいない」と。
農薬の「ワルさ」ならまだ説明しやすいが、肥料が人体に及ぼす影響を齢70を超えた女性にどう伝えればいいのか。「ショウサンタイチッソ」など、単語の時点で聞く耳がふさがってしまう。
だからといって、「もういいよ! 変な野菜ばっか食べて病気になってしまえ!」などと、あきらめるわけにもいかない大切な人。
きっと、この本を呼んでいる人たちの、多くの家庭でも怒っているであろう葛藤だ。
さとうさんのこのコラムには、沖縄の「口からドゥー、しーらいーらん」という言いまわしも紹介されていた。これは「口からしか病気は入ってこないよ」という意味で、沖縄の先人たちの知恵だそうだ。
幸い、最も身近な家族である相方とは、同じレベルで理解ができていて、食べ物の話も、使う物の話も、なんでも遠慮なしに相談して決めることができているが、他の家族とは「どう伝えればいいのか…」という壁が常に立ちはだかる。
大切な友人たちや知人たちにも、できればイイモノを食べてもらって、イイモノを使ってもらって、健やかで穏やかで幸せな人生を送ってもらいたいのだけれど、うざがられやしないだろうか、と結局、何も言えずに終わってしまう。
かといって、「もういいや。伝わらないんだからしょうがない。病気になったって知らない」とあきらめるわけにもいかない大切な人たちである。
今食べている物、使っている物が身体によくない可能性があるということを、知ってすぐに改善できるならよいけれど、改善できない、あるいは改善するのが困難な状況であれば、危ないよ、と言うほうが余計にストレスになって、身体に悪いのではないかろうか、という気もしたりして、余計に口をつぐむようになった。
さとうさんは、科学や根拠が好きで、知識や調査で自然栽培の良さを知ったそうだ。さとうさんのお母さんは昔の自然栽培の野菜を知っていたので、それを思い出してもらうことで、自然栽培のよさを伝えることができたと書かれていた。
私もどちらかと言えばさとうさんに近く、知識から入った。昔の枯れる野菜のことは知らない。本を読んで知識から入り、知ったことを確かめるために自然栽培の野菜を売っているお店へ行き、そこで売られているものを食べて、自分の身体で実験をした。かつての虚弱体質だった自分からは考えられないほど健康になり、そのよさを実感した。自然栽培の野菜は、腐ることはまったくなく、枯れるようにしなびていく。自分たちでも自然栽培に取り組んでみようと、相方と自分たちで食べる野菜を自然栽培で育てることに挑戦しはじめた。無肥料で育った野菜の味は複雑で濃く、少量で満足する。ますます自然栽培のすごさを思い知らされている。
知識から入った私は、論理立てて説明すれば誰でも理解してくれるものだと思っていたが、それは勘違いだったということが、だんだんわかってきた。まず、耳から入る情報量の限度が人によって異なる。聞き慣れない単語が3つ以上続くと、ほとんどの人は情報処理が追いつかなくなる。文章なら読んでもらえるかもと思っても、文字で読んで情報処理するのが難しい人もいる。どうにか最後まで聞いてもらえたとして、相手がたとえ論理で理解したとしても、理解したくないことであれば、憤慨して反論のための反論が返ってくる。自分が慣れ親しんだ知識体系に合わないものに触れたとき、反発という反応が最も多くなる。
何度も失敗を繰り返して、食べてみてもらえたら、使ってみてもらえたら、伝わるのではないだろうかと、プレゼントに自然栽培のものを贈ったり、家に来てくれたときに食べてもらったりもしてはみたけれど、その良さがわかる人は少ないということもわかってきた。
普段化学調味料がたっぷりのものを食べている人は、わかりやすい舌先のうまみではない、自然栽培の味は物足りなく感じる場合も多いようだ。普段イイモノを食べていない人でも、身体にすっと入ってくるようなうまさだと、すぐにわかる人もときどきいるが、違いがわかる人はやはり少ない。
「あれいいね」とわかってくれたとしても、スーパーで売っているとか、買いやすいところに売っていなければ続かないと言う人もいる。通販で取り寄せたりというのは、慣れてしまえばそれほど面倒なことではないが、目で見て買うのに慣れていると、通販のハードルが上がるのも理解できる気がする。
わかるレベルに達するまでは、もう何をしても無理だろうとあきらめかけていた。わかるレベルは人によって異なる。テレビでさかんに言い始めなければ、真実だとは思わない人も多い。しかし、それまで待っていては遅い気もする。
そんな葛藤を抱えていた自分に、以下のくだりはさらに刺さった。
(自然栽培に)たどり着く方法はさまざまだが、確かに「ここ」へたどり着けたという事実だけでも、僕らはラッキーだと思う。
日本の慣行栽培が99.6%で、残り0.4%のごく一部が「自然栽培」という状況下で、先にたどり着いたわずかな人たち。
あなたを含め、僕も、母も。この本を読んでいる日本では確実にマイノリティな僕らには、使命があると思うのです。
説明しにくいからとあきらめず、葛藤にも負けず。
イイモノは、やはり良いのです。
〈中略〉
最近、あきらめていませんか?
聞く耳をもってくれない人に、「もう、病気になってしまえ!」とか恐ろしいことを思っていませんか(笑)。
あなたにしか、伝えられない説明で。あなたの話なら、聞いてくれるまわりの人たちに。
「イイモノ」に先にたどり着かせてもらった僕らからの、恩返しを。
最近、あきらめていた。さすがに「病気になってしまえ!」などとは思えないけれど、家族から病気や不調の話を聞くたびに、食べ物を変えたら絶対によくなるだろうけどなぁ、と思いつつ、聞いてもらえないに決まっているとあきらめて、口をつぐむようになっていた。
振り返ってみると、このブログでもあまり書かなくなっていたなぁ、と反省。これからは、先に気づかせてもらった自分の恩返しとして、もう少し、食のことについても書いていこうと思った。
余談ながら、さとうみつろうさんのことは、スピリチュアル界隈で有名な人という印象を持っていた。
スピリチュアル界隈の有名人の中には、食べ物で病気になるかどうかは、自分の意志が決定すること、つまり、これを食べたら身体に悪いと思えば、その通り、それを食べたら身体に悪影響が起こり、これを食べたら健康になると思えば、それを食べれば健康になる、と言う人もいる(特に引き寄せの法則界隈の人たち)。だから、農薬たっぷりのものを食べようが、化学添加物まみれのものを食べようが、自分がそれを食べて健康になると思えば健康になれるという理屈だ。
「ネオニコチノイド系農薬はどうの」とか、「硝酸態窒素はどうの」とか、「これは身体に悪いですよ」という情報を与えることは、ネガティブな波動を持つ言葉をかけることになり、相手の健康を妨げることになるから言わないほうがいい、と主張する人もいる。病気は魂の修行のために生まれる前に自分で決定してきたことだと主張する人もいて、そういう考え方から発想すると、「何を食べようが病気になるときはなって、病気になることはその人の魂の成長に必要なことだから何も言うな」ということなのだそうだ。
そういうスピリチュアル系の人が結構多いので、(私がスピリチュアル界隈の有名人と勝手に思っていた)さとうさんが、先にイイモノを知ることができた者の使命として、まわりへの働きかけを呼びかけていたのは、ちょっと意外で、こういうまともなスピリチュアルの人もいるのかとうれしくなった。
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