20181211

人物像を予想することについて

知り合いでかなりセンサーの発達している人がいる。その人は写真を見せただけで、「この人はこういう人ではないか?」と聞くのだが、ほとんど外したことがない。わかる人にはそのレベルでわかってしまうのだろう。

私はその人ほどではないが、顔を見たらだいたいの人柄の予想がつき、文章や態度の背後にあるものがわりとわかる。

以前、先進的な町の視察ツアーに参加したとき、別の参加者に話しかけられた。目の曇り具合から、「この人は何か排他的な宗教の人では?」と思い、あまり深い話にならないように用心していたら、突然、その人の口から「私、創価大学で今勉強しているんです!」と言われ、「あー、やっぱり…」と思った(創価大学は創価学会の人が勉強するところ)。

顔や声だけでもある程度のことは予想できるが、文章や会話の内容、ふるまいなどからさらに多くのことが予想できる。言葉を見たり聞いたりすれば、意図や感情、根底にある考え方が透けて見える。

決めてかかることはないが、予想に基づいてリスクはなるべく避けるように注意しながら観察する。天気予報のようなもので、雲や風向きから判断して、雨が降りそうだな、と予想したら、傘を持っていったり、洗濯物を取り込んだりする。それと同じようなものだ。あくまでも予想ではあるが、これまでのところ、やっぱりそうだった、とわかることがほとんどだった。

予想の時点では、明白な物的証拠があるわけではなく、本人に確かめたところで本音を言うわけはないから確証はないが、同じレベルでわかる人に聞いてみると、「私もそう思った」と一致する。だから、それほど珍しいことではなく、ほとんどの人にはわかるものだと思っていたが、わからない人には本当にわからないらしい。

以前、知人が2、3回しか会ったことのない人からイベントについて会場提供を頼まれた。知人は、そのイベントに必要不可欠な道具が私のところにあるので貸してもらえないかと言う。わりと高価な道具で壊されると困るので、設置や操作をしに行くことにしたが、交通費も自腹のうえに、リハーサルでも数時間、イベント当日も数時間拘束される。どういう目的でどういう趣旨のイベントなのか、知人も知らないようだった。

イベントをする人物について、気持ちよく協力できる人物かどうかが知りたかったので、その人について調べた。ウェブサイトやSNSなどで発信をしているのが見つかったので読んでみた。そうした文章からは、他者に対する感謝や誠意が感じられず、自分だけがすごいと思い込んでいるのがにじみ出ていた。敏感な別の人に「どう?」と印象を尋ねると、同じ印象を受けたと言っていた。この文章を読んだら、ほとんどの人はそれがわかるのでは、と思うほどだったが、知人は「スピリチュアルでアーティスティックな人の文章」と高く評価しているようだった。

その人がお客さんから上演料をもらうイベントで、チャリティのイベントか何かならまだ理解できるが、そもそも、自分のお金もうけに必要な道具は自分で調達するものなのでは、と思う。こういうのをまさしく「人のふんどしで相撲をとる」と言うのだと思った。

本当は引き受けたくなかったが、知人の頼みなので仕方なく引き受けた。知人はこちらの連絡先を相手に伝えたと言っていたが、イベントの趣旨の説明など、挨拶のメールも何もない。しばらくして、接続に必要な道具がわからなくてメールで質問してきたが、挨拶や感謝の言葉はいかにもついでの文章だった。その質問にこちらが答えても返事はない。直接会うまでにモヤモヤすることがほかにも多々あり、ますます気分は重くなった。

頼まれたら何でも喜んで引き受ける愚かな「お人よし」だと思われても困るし、知人にもこれ以上振り回されてほしくないし(相手の要求はすでに二転三転していて、そのたびに対応に追われていた)、知人が好意を寄せている人物について率直な印象を伝えるのはとても気が進まなかったが、知人には率直に、これまでのやりとりや文章から受けた印象について話した。

知人は私のことを「(相手に)会ったこともないのに、文章だけでそんなふうに判断するとは、なんて傲慢なやつだ」と思ったようだった。知人には「(あなたは)見返りを求めない人だと思っていたのに」と言われた。

知人に言わせると、その人は「めっちゃくちゃいい人」で、私の協力に対して本当に感謝しているのだという。挨拶のメールは質問のついで、質問に答えても返事もない、こういう態度で、どうして本当に感謝していると思えるのだろう。口先だけの「ありがとう」「感謝しています」だけで信用してしまうのか。わからない人にはわからないものなのか、それとも、私の推測が外れているのか。

実際に会ってみると、思いつきで事を起こしてまわりをふりまわし、命令ばかりして、自分は全く動かない人だった。口先では「お時間大丈夫でしたか?」などと言うが、いざ作業が始まると、ああしろ、こうできないのか、という要求ばかりで、物理的に無理な要求もあるし、そのときにやる必要のないことまで思いつきでダラダラやるのに付き合わされる。こうした一連の行動からは、こちらの時間も労力も全く気にしていないようにしか見えない。本当に相手に時間をあまり取らないようにと思っているなら、できる準備はなるべく済ませて、こちらの対応が最小限で済むように配慮するものだろう。

会場は知人の管理している建物だったが、自分の家のように自由気ままで、「ここまではいい」と知人が言ったところ以外の場所も何やらしゃべりながら動画を撮影しはじめ、物置場とか、どう考えたって入ってほしくなさそうな場所まで用もないのに歩きまわっている(「見てもいい?」と一応聞いてはいたが、断れなくて許可している感じだった)。文章から受けた印象以上に自己中心的な人物だった。

当日も開始時刻の2時間前に来るように言われたが、30分前でもいいくらいの作業なのにと思い、1時間前にと交渉した。こちらの時間を本気で気にしているなら、まずはこちらの考えや希望を聞くものだろう。当日、1時間前に着いても、「ああ、来たか」くらいの反応で、こちらが効率よく作業できるようにという配慮は全くなく、我々の存在を空気のように気にせず自分の作業を続けている。こちらから聞かなければ、作業が進まない。言われるがままに2時間前に来なくて良かった…と思った。

私はタダ働きで、交通費も自腹。知人はわずかな収入を得たが、労力には全く見合わない。知人はその労力に見合わないわずかな収入のなかから、私にお礼のプレゼントをくれた。イベントをやったその人は、4万円以上の収益を得て、ほくほくして帰った。

そういうことはこれまでにも何度もあった。顔を見ただけでもだいたいどんな人かは予想がつくし、その人の書いたものや普段の会話や、言葉遣い、動画などがあれば、さらに予想の精度は高まる。それがあまりよくない印象だった場合、そういう人だとは思いたくないという心理が働いて、会って話してみたあとで「やっぱり違ったな」と一時的に思うことがあっても、長く付き合ううちに「やっぱり最初の印象の通りだったな」となることが多い。

重要な場面で「この人はこういうところがありそうだから気をつけたほうがいいよ」と、予測を立てた根拠とともに伝えて、「なんてひどいやつだ」と思われ、その後、「やっぱり言われたとおりだった」となることがこれまでにも度々あった。

それがわかってからでは遅いから、予想を立てて、予防線を張る。衝突事故だって、事故が起こってからでは手遅れだ。疑いをかけるのは失礼かもしれないが、あの車は危なそうだと予想を立てて、車間距離を保ったり、違う道を通ったりして、対策を取る。「やっぱりそうだった!」と断定できる明確な事故が起こるまで、なにも対策を講じないでいては、騙されたり、利用されたり、大きな損害を被ってしまうことにもなりかねない。

もともと敏感なことに加え、顔や声やその人の表現したものから、予想を立てて、観察して、検証して、というサイクルを幼いときから繰り返してきたので、私の人を見抜くセンサーはかなり鍛えられているほうだと思う。大切に思っている人たちにはなるべく痛い目にあってほしくない。それで、私が見える範囲で、未然に防ぐための方策があるなら、気をつけておいてほしいから必要がある場合には伝えるのだが、この知人がそうだったように、傲慢だと思われることもある。

こういうことから推測して、これまでにもこういうことがあったことと考え合わせると、こうなるのではないかという可能性もゼロではないから、こういう対策をしておいたほうがいいのではないか、といった話をすれば、だいたい理解してくれるものとこれまでは思ってきたが、話しても通じない人もいるということが、最近少しわかってきた。

見える度合いも違えば、筋道を立てて考える訓練の時間も違うのだから、わからなくても仕方がないのかもしれない。わからない人には、私が言っていることがあくまでも推測で、断定しているわけではないということすら伝わらないこともある。理解できないことを理解できる範囲で理解しようとすると誤解につながり、「傲慢」「ひどい」という評価になるのだろう。どう思われても構わないという強さがあれば、どうということはないのだろう。同じものを見ても、わかる人には説明すらしなくてもすぐに通じるが、わからない人には全くわからない。この理解の壁とどう向き合っていったらいいのか、それをこれから考えていきたい。

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