マハトマ・ガンジーの
"You should be the change that you want to see in the world."
(あなたがこの世界で見たい変化にあなたがなりなさい)
という言葉、大切にしている教えです。
私がこの世界で見たい変化、いっぱいあるんですが、そのうちの一つは、だれもが思っていることをもっと裸の言葉で、でもソフトに、言い合えて、お互いがお互いの考えを尊重し合えるようになることです。考えが違っても、それで排除したり、変人扱いしたり、嫌ったりしない。多様な考えに触れることで、誤りに気がついたり、真理に近づけたり、ということが、あると思うからです。
だから私はなんでも言ってしまいたいと思っています。言わないと、少数派の意見の人が、本心を言ってはいけないというような空気に飲まれて、ありのままに思っていることを言えなくなる、そういう空気を自分も作ってしまうと思っています。ただ、まだソフトに話す訓練が足りないので、直接はうまく言えないこともあります。そういうまだうまく言えない私の考え方を、ここに書いて読めるようにしておいてもよいかな、と思いました。世の中で現在一般的になっている考え方とはだいぶ違うとは自覚しています。
結婚についての考え方も、そうしたことの一つです。年齢的にも結婚のことを心配してくださる方が多くなってきました。みなさん、私の幸せを思って言ってくださっているというのは理解していて、その気持ちはありがたいことです。みなさんの考え方では、結婚をすることが幸せであるとなっているので、私の幸せを願ってくださっているのだとありがたく思っています。
また一方で、何か独特の考えがあってのことだろうと推察してか、そっとしておいてくださる方々もいて、心遣いをとてもありがたく思っています。また、難しい事情があるのだろう、でも言いにくいことなのかもしれない、と思ってくれているのかも、と表情から感じることもあり、そうではないということを伝えないといけないとも思っていました。よい機会かと思ったので、自分の考えを少しまとめてみたいと思います。
率直に言うと、私は今の法律婚だけが幸せなパートナーの形式だとは考えていません。自分が法律上の結婚していないから幸せでないとも、結婚したいとも思っていません。今たいへん幸せです。よき理解者であり、よき話し相手であり、よき仲間であり、そんな相方と長年一緒に過ごしてきました。自分が自分のままで、お互いに独立した一人の人間として、尊敬し合い、励まし合い、お互いの家族と歴史を大切に思い、そういうパートナーどうしとして生きています。それが私にとっては理想であり、それをこれからも継続するには、今のところ、法律上の結婚という形が、自分にとっても、自分に関係する人々にとっても、ベストな形ではないのです。
欧州等で進んでいるパートナー制度や夫婦別姓と比較して、今の日本の結婚の制度が「昔ながらの伝統的な家族の形」とはよく言われることですが、私はそうではないと考えています。こう言われるときの「昔」というのは、権力や財産などの所有という概念ができてからの時代、武家社会や豪族や貴族の社会を指していると思います。摂関政治や政略結婚などから考えて、そう思います。たとえば縄文時代など、もっと遡れば、今みたいな結婚の概念はなかったのではないでしょうか。
アジアの森のなかで平和に持続可能な暮らしをしている民族は、所有という概念がなく、結婚も男女が一緒に暮らし始めたらいわゆる「結婚」をしたものと見なすそうです。苗字がどうとか、家柄がどうとか、儀式とか、そんな煩わしい悩みはありません。虫たちや動物たちの夫婦を見ていても、パートナーどうしになるのに名前が変わってしまったり、何番目に生まれたかでハードルが上がったり、やけにお金がかかったり、そんな煩わしいことをしているのは人間くらいのものだと思います。
今みたいな結婚の概念があるせいで、女の子が生まれると「どうせ嫁にやらなければならないから」とがっかりされたり、勉強したいことを勉強させてもらえなかったり、男の子を産まないからと母親がいじめられたり、昔よりは減ったと思いますが、身近にそういう悲しいことがありました。世界的に見ても、ジェンダー平等に関して日本は非常に遅れていて、2013年の世界経済フォーラムの調査(日本105位/136カ国)でも日本は最低レベルであったり、ILOにも男女格差の改善を求められていたり、国際会議などでは日本のジェンダー平等は途上国並みという指摘も聞いたことがあります。
それから、人間なのに嫁/婿に「やる」とか「ける」(秋田弁であげる)とか「もらう」とか、贈答品のやりとりみたいな言葉で結婚の話がされることに、幼い頃から違和感を感じていました。高校の倫理の授業で、部族の時代から女性は「ギフト」だという考え方があると指摘している人類学者のことを倫理の先生が話してくれました。一人の学者の指摘ですが、それは先ほど挙げた表現といい、確かに日本にもあると思いました。中学校の卒業祝いでもらった印鑑が、女子は苗字が変わるからという理由で下の名前、男子は苗字になっていて、すごく変だと思った記憶があります。今思えば、そういう刷り込みを教育現場でもやってしまうのは良くないことだと思います。
苗字が変わるのは、私にとっては、すごく大きなことです。アイデンティティに大きな影響を与えます。相方の苗字も好きです。侘び寂びの、シンプルで、峻厳な世界観を持ったカッコイイ漢字です。一方で、自分の苗字は、豊穣の世界です。黄金に頭を垂れる稲穂の上を、トンボが飛び交い、カエルが飛び跳ね、トンビがくるりと環を描く、そういう風景が浮かぶ漢字です。正反対の印象を持った苗字なので、変わってしまうと、別の人間になったような感じがします。それが法律上の結婚をした後一生続くのは、人格がおかしくなってしまいそうだとも思います。相方もそうだと思います。私が今の苗字のままでいたいのと同じように、相方も今の苗字のままがいいと思っているし、自分がしたくないことを相方にもしてほしくありません。
通称で行ったら?とも言われますが、自分とは別の人格の名前がこの世のどこかに存在しているだけでも不気味な感じがします。しかもそれが公的なもので見ないわけにはいかないものなのです。免許証も、確定申告も、銀行口座も、通称は使えないようです。説明の煩わしさについてもフリーランスの方から聞いたことがあり、なんてたいへんなんだ…、と唖然としました。
(参考:夫婦別姓資料館「通称使用の可用範囲」)
今は、私と相方をセットで呼ぶときに、お二人と呼んでもらえたりするので、まだ自分の存在が同レベルで含まれている感じがします。一方で、法律上の結婚をしている夫婦は、◯◯さんご夫妻と呼ばれているのをよく見聞きします。◯◯さんに入るのはどちらかの苗字で、どちらかは自分の苗字で呼んでもらえないことになります。私の感覚では、それだとどちらかはオマケみたいな感じがします。
旦那(=パトロン)や主人(=マスター)という呼称も、私は相手に頼りきって生きているわけではないので、違和感を感じます。奥に引っ込まずに、社会と関わって生きていますので、奥さんにもなりたくありません。英語だとただ単にhusbandとwifeで済むのに、日本語はうまくいかないなぁと思います。お互いに独立した一人の人間としてお互いの存在を尊重しながら生きている自分たちに、主従関係を示す呼称は使われたくありませんが、法律上の結婚をすると避けられなくなってしまうので、私としてはそれは困るなぁと思うのです。
◯◯さんご夫妻、ご主人、旦那様、奥様と呼ぶことは丁寧な表現で敬意を示す意図なのでしょうし、そう呼ばれるのがうれしいと感じる人もいるかもしれません。そういう考え方もあると思います。私はそれとは違う感じ方をしています。私みたいな考え方の人もいるかもしれません。両方存在していいと思います。
誤解のないように念のため付け加えると、結婚が幸せであることを否定しているのではありません。結婚が幸せだと考えている人たちが、結婚をして幸せになり、うれしそうにしているのは、私にとってもうれしくておめでたいことです。身近な人の結婚も、聞くたびに良かったなぁと思います。私はそうならなくても幸せだというだけのことです。私にとって今のパートナーの形が幸せであるのと同じように、結婚した人たちにとっても結婚という形が幸せであると理解しています。結婚が幸せだと思っている人が結婚をすることは幸せなことだと思います。私は少し違うだけです。両方の考え方があっていいと思います。