20130107

だれもが芸術家

小説を書く人でなくても、音楽を作る人でなくても、
絵を描く人でも、彫刻をほる人でも、演劇を作る人でもなくたって、
だれもが芸術家でありうると思うことがある。

芸術とは、はっとさせられるもの、
心をぐっとつかんで離さないものだと
私は思っている。

世間では芸術家とは呼ばれない、
自分でも自分のことを芸術家だとは思っていない人。
そういう人たちのふつうの毎日のなかに
心をつかまれるものを見ることがある。

傘寿を越える女性。
彼女はずっと働きどおしだ。
身体もしんどいだろうにと遠くで暮らす孫が言う。
「おばあちゃんほど、いつまでも苦労してる人ないよ。」
「なあに、泣いても一生、笑っても一生だぁ。」
彼女はいつも気丈に笑っている。

正月、それぞれの暮らしから実家へ集う兄弟。
母親はおいしいものを朝昼晩、せっせと用意する。
一日中、下ごしらえに、買い物に、料理、
片付けの繰り返しで、ゆっくり座る間もない。
食べ盛りの子どもらが母親の分を残さずに
ほとんど食べ尽くしてしまってもニコニコしている。
客人が気の毒になって言う。
「作ったのはお母さんなのに、お母さんの分がちょっとしかないなんて」
母親は笑って答える。
「食べるのに執着ないからええんやで。
 おいしいって食べてくれたらそれが一番うれしいんよ。」

都会の混んだ電車の中。
会社員らしい男性が立ったまま、必死の形相で書物をしている。
やっと前の席が空いて座ると、ほっとした表情で資料を広げ、
書物のスピードを上げる。
次の駅で赤ちゃんを抱っこした女性が乗ってきた。
やっと座れた男性はきっと譲らないだろう、という自分の予想に反して、
男性は「どうぞ」と立った。
女性は最初遠慮したが、男性がもう一度「どうぞ」と言うので、
ありがたそうに席に座った。
しばらくして別の席が空くと、その前に立っていた人は座らなかった。
まわりにいただれもがさっきの男性に遠慮しているかのようだった。
そのうち1人が、「空きましたよ、よかったら」と男性に声をかける。
男性は決まり悪そうにしながらも、でも助かった、という感じで
譲られた席に素直に腰を下ろした。
だれもが自分の世界に没入し、他人には無関心に思える都会の電車。
その中で見られた優しさの連鎖だった。

こういうシーンに出会うと、
どんな芸術作品にもないような感動に満たされる。
そのたびに、人間の人生とは、スケッチブックの一頁一頁、
原稿用紙の一枚一枚のようなものに思えてくる。
生きている姿そのものが心をつかむ。
その意味でだれもが芸術家でありうると思う。
自分も、自分の人生というこの作品を、
妥協なく高めていきたいと願っている。