過去の手帳を整理していたら、こんな言葉が目に止まりました。
「人生とは時間をかけて自分を愛する旅」
ピアニストのフジコ・ヘミングさんのドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』を観に行ったときに、おそらくフジコさんが語った言葉で、手帳のノート欄にメモしたのでした。それまではずっと忘れていたのですが、あのときの映画で出会った言葉だとすぐに思い出しました。
年を重ねるにつれて、このままくすぶって何も成し遂げないまま、日々を淡々とまわしていくだけで人生が終わるんだろうかと不安に思うことがたびたびあります。でも、その数分後には、「いや、違うだろ」と自分にツッコミを入れている自分もまた存在して、生きている時間というのは、何かを成し遂げるためにあるわけではないし、何かを成し遂げたところで、例えば賞を取ったり、何かの技や芸で秀でて有名になったり、お金がたくさん入ってきたり、そんなふうになっても忙しいだけで幸せには見えない人もたくさんいるし、気づけば、ゆったりマイペースに時間を自由に使えてのんびり生きられるほうが楽しいんじゃない?と思い直している自分がいます。なんとも無駄な時間だと思うのですが、この2つの思考でよく揺れてしまいます。
生きているということそのものが喜びであるはずなのに、どうしてこんなにも、何かを成し遂げなければならない、身を立てなければならない、多くの人々の役に立たなければならない、今はその状態になっていなくてもそうなるための努力を常に続けて技芸を磨かなければならない、といった思考にたびたびさいなまれるのか、不思議なものです。
それはおそらく、メディアで「すごい」と取り上げられる人が、賞を取ったとか、有名になったとか、起業して成功したとか、そういう人たちばかりで、周りの人たちと話していて尊敬されているのもそういう人たちばかりだからなのかな、そういうメディアに触れすぎているのかな、そういう声を聞きすぎているのかな、と、そういうものも一因としてあるのかもしれないと思います。自分もそんなふうになれるように懸命に努力しなければと考えがちになります。
他人と自分を比較して、自分はまだまだダメだと思い悩んだり、もっともっとがんばらなきゃ、と自分にダメ出しをし続けることは、この言葉にある「自分を愛する」という姿勢とは真逆だと思います。またブレかけたときには思い出したい言葉です。
この言葉と何年かぶりの再会をした朝、雨上がりの高い空にツバメが飛び交っていました。季節外れのうぐいすの鳴き声も聞こえます。その姿を見て、その声を聞いて、この言葉に「地球を」を加えたい気持ちになりました。「人生とは、時間をかけて、自分と地球を愛する旅」。ツバメたちも、澄んだ青い空も、うぐいすも、土の上に咲く花々も、人生に喜びを与えてくれています。地球にある、美しいものに気付いて、その美しさを愛でて、しばしの別れを名残惜しんで、再会を喜んで、慈しむ。変わりゆく自然の姿と、そして変化していく自分のことも大切に思う。そういう時間を重ねることが人生なのかもしれないと思った朝でした。