20181106

一緒にいる男女を見て夫婦と憶測することについて

電車で街なかに出たらときときどき寄る自家製天然酵母のお気に入りのパン屋さんがある。相方と2人で行くことも多いが、1人で行くこともある。何回か通ううちに顔なじみになり、スモールトークもしてくれる。

先日、PC仕事に集中したくて街なかのカフェへ1人で出かけた。帰る途中、そのパン屋さんにかなり久々に寄った。人気のお店で休日なのもあり、3人くらい並んでいた。5分くらい待って店に「こんにちは」と入ると、「お久しぶりですね」と笑顔で出迎えてくれたのだが、ふいに「ご主人は?」と聞かれた。

かなり久しぶりに寄って、1人で来た女の人に、ときどき一緒に来ていた男の人のことを「ご主人は?」と聞くのは、かなり危険な質問だと思う。

もしケンカして家出してきたのだとしたら? 離婚して係争中だったら? 法律婚はしていない恋人だったけど別れた、というケースだって十分考えられる。突然相手に新しく好きな人ができて行方をくらましたとかだったら? 知らない間に借金を作っていて、財産を持ち逃げしたとかもあるかもしれない。そんなときに聞かれたら、軽い場合で腹が立つか、重ければ深く傷つく質問だろう。

たまたま、私はどれでもなかったけど、ケンカして逃げてきてカフェで仕事をしていることもたまにある。たまに2人で来る人が、今日は1人で来た。ざっと思いつくだけでも、いろんなケースが考えられるのに、そういうのを想定せずに、「ご主人は?」と聞いてしまうのは、危険ではないだろうか。今までそれで憤慨されたことはないと思っていても、単に相手が我慢しているだけで、表面化しないからわからないだけだ。

私はこのパン屋さんに相方のことを「主人」と言ったことは一度もない。パン屋さんに来るときに一緒に来るとしても、法律上の夫婦とは限らない。

別居していているカップルかもしれないし、同居しているカップルかもしれない。もし法律婚を望んでいるカップルだとしたら、親の反対、家庭の事情、経済的な問題など、なにか複雑な事情で結婚という形をとれずに悩んでいるかもしれないし、もしそうだったら「主人」と呼ばれるのは傷口に塩を塗ることになるかもしれない(「やっぱり私たちは夫婦に見えるのね!」と喜ぶ人もいるのかもしれないが、常に逆もある)。

もしかしたら親友かもしれないし、仲のいい親類かもしれないし、兄妹かもしれないし、離婚した前の夫かもしれないし仕事仲間かもしれない。

以前仕事で知り合った人たちで自宅兼職場によく一緒にいるので「夫婦かな?」と思っていたらいとこだった。友人に「あの人たちはご夫婦?」と聞かれた知り合いの男女はカフェのオーナーとスタッフという関係だった。あるエッセイでは一緒にいる男の人のことを夫だと思って「ダンナさん」と言ったら「あの人は子どもの父親で夫ではない」と言われて恐縮した話を読んだこともある。

実際、仲のよさそうな男女2人が法律上の夫婦ではないというケースは結構あるわけだが、どうしてそんなに確信を持って男が主体の法律上の夫婦だと決めつけられるのだろう。私と相方は、対等なパートナー同士としてともに暮らしているだけで夫婦ではない。私と相方の関係は主従関係では全くない。

一見仲のよい男女2人を見たら、男が主体の夫婦と勝手に決めつけて呼ぶことは、さまざまな場合を想定できない知性の低さを露呈してしまう。関係性で言葉を選ぶことで、常に他人のことを、この人たちは結婚しているか、恋愛関係か、親子か、といったように、他人のプライベートな関係にアンテナを張っている下世話な人間という印象も与えてしまう。

「ご主人」という言葉は「ダンナさん」よりも危険度が高いと思う。「ダンナ」のほうが、仕事を持っている若い女性が使う傾向があり、「主人」に違和感があるが、他に夫を指す言葉がないのでしょうがなしに使っている人が多い感じがする。一方、「主人」は読んで字のごとく「あるじ、ぬし」。「ご主人」と言われると、「この人も私が相方に飼われていると思っているのか?」と反射的に思ってしまう。「今パンを買っているこのお金も、私が仕事をして稼いだお金ではなく、相方の稼ぎだと思っているんだろうか?」という疑問もふとよぎる。

もちろん、そこまでのことは考えていないのだろうとは思う。何も考えずに、夫を表す丁寧語くらいのつもりで言っているのだとは思う。悪意はないのはわかっている。

だが、「主人」というのは、「主」の「人」―見るからに主従関係を表す言葉だ。「主人」という言葉が使われるのは、奴隷に対する主人、ペットに対する飼い主、使用人を使っている主人、店や家など建物の管理主など、「主人」に行動の自由を管理されているか、無生物で意志のない存在だけだ。そこに女の人が入るということに気持ち悪さを感じないだろうか。

「主人」「嫁」「家内」といった言葉はhusbandとwifeの意味でしかないと言う人もいるが、こういう言葉を使っている人と話していると、やっぱり「男が主で女は従」という考えを根底に持っていることがやがて明るみになる場合が多い。そういう人は、私の仕事については聞かないし、私の意志や考えを聞くことはない。私と相方が2人で相談して決めたことについても、相方が勝手に決めて私は付いてきたという前提で話される。言葉に刷り込まれているのか、それとも、そういう考えを持っているからそうした言葉を選ぶのか。

何回も何回も刷り込まれるように、相方を「主人」と呼ばれているうちに、私は「主」にはなりえない宿命なのか、意志を持ってはならない存在なのか、どんな仕打ちも我慢が美徳とされる存在なのか、と思ってしまうような恐怖を感じる。

今みたいにまだ反発を感じるうちは大丈夫な気がするが、反発すら感じなくなったらいよいよかもしれない。相方は私を従えようとはしないし、私は相方の奴隷やペットや召使いではないし、そういう意味合いのある「主人」という言葉で相方のことを言い表されると、うちらはそういうのじゃないんだけどな、と憂うつな気分になる。

話している相手が、その人と関係のある人たちのことをどう捉えているかはわからない。その人が使う言葉を聞くまでは、勝手な判断は控えた言葉選びをしたほうが賢明だと思う。

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