20180522

「正しいヤツより楽しいヤツに」なろうという提案を見て

ネットで調べ物をしていて、「正しいヤツより楽しいヤツに」という文言を目にした。

わるいことをしたり言ったりする人には楽しい人が多く、正しいことをしたり言ったりする人に楽しい人は少ないのかもしれない。それで世の中にはわるいことばかりはびこり、正しいことは受け入れにくいのだろうか。何が正しいのかという議論すら、興ざめだと敬遠され、成立しないことも多い。

この言葉に考えさせられた。自分が書く投稿も、読む人には楽しくないものが多いのかもしれない。本来どうあるべきなのか、何が真実なのか、何が正しいのか、ということを考えた思考の形跡を書くことが多い。

たとえば、男尊女卑が残る言葉や風習よりも対等な個人として尊重された言葉や行いのほうが好きだし、遠くの国の会ったことのないだれかを苦しめて搾取して作られている物よりも、フェアトレードで作られたものが好きだ。水や空気を汚してつくられたもの、動物を苦しめてつくられたもの、大地を深く傷つけてつくられたもの、自然に還らないものよりも、化学物質を用いずに作られた植物性素材を原料に持続可能な方法で作られたもののほうがいいと思う。そうした考えに至った経緯や、なぜそう思うのかの根拠などをよく書いているように思う。

こうした内容は、読んでいて楽しいものではないのかもしれない。「楽しいヤツ」という要素も大事にしなければと思った。もちろん、自分が正しいと思っていないことをされても、相手に悪意がなければいちいち噛み付いたりはしないけれど、相手からたずねられたりして、自分の正しいと思っていることを説明するときに楽しさの要素は足りていないように思う。

「正しいヤツより楽しいヤツに」というのは、自己啓発本の有名な著者の本のタイトルからとられたもののようだったが、正しさと楽しさは両立しないのだろうか。人生を楽しむことも、周りの人を楽しい気持ちにすることも大切だとは思うけれど、正しさは犠牲にしたくない。願わくは、正しくて楽しく読めるもの、を書くように努めたい。

でも、表面的なコミュニケーションはネット以外の場所で否が応でもしなければならない。今のような独白的に書く本音も、これからもたぶん書いてしまうとは思う。今のこのスタイルがいいと言ってくれる人もいるのでありがたい。本音ではないものには辟易としている人も少なからずいるのかもしれない。素で本音を書いて「正しくて楽しい」になれたらと思う。