人が何かを理解する速度というのは、人によって大幅に開きがある。一回言えばわかる人もいれば、5回目でわかる人もいるし、何回言ってもわからない人もいる。
体重が減ったと心配している人がいた。10キロ近く減り、激やせだとまわりから心配され、BMI値で標準近かった体重が10キロも減って、自分でも心配だという。
それで体調に異変を感じるのかと聞いてみると、特に何ともないという。寒さを感じやすいということもない。疲れやすさも変わらない。食事が全く取れていないわけでもなく、身体を動かす仕事が増えたのが原因のようだった。「それなら心配する必要はないんじゃないの?」と言うと、「そうかもね」と笑っていた。
その後、その人からは事あるごとに、体重が減った心配を半年近く何度も聞いて、そのたびに、体重という数値ではなく身体の声を聞いたほうがいい、という話を、自分の体重と体調を含め(私はその人よりも身長が高く、体重は少ないが、体調は良好)、さまざまな事例を交えて説明した。無用な心配はむしろ身体に悪い。私と話し終わるときには、いつも「それもそうね」と笑うのだが、また次に話すときには激やせを心配している。
そんなことが何度も続いたある日、また激やせの心配の話をされて、「またか」と思いながら、数値ではなく身体の声を聞いたほうがいいといつもの説明を繰り返していると、ふと、「そういえば、ひざの痛みがなくなった。むしろ良くなったのかも」という言葉が返ってきた。身体のサインを聞きはじめたのだ。ようやく少し理解してくれたということだとうれしくなった。
論理的にわかりやすく、二義にとれないような明確な表現で何かを言えば、そのまま理解してもらえるものと、これまでは思っていて、何度も同じ話を繰り返すのは、相手に失礼なのではないかと思っていた。でも、その人との会話を通じて、それは誤りだったとわかった。
何度同じ話をしても、どれだけ言葉を尽くしても、適切な例をいくつ挙げてみても、理解のきっかけを与えることはできるかもしれないが、そのきっかけをつかんで理解につなげてくれるかどうかはわからない。伝えたい内容の1割も伝わっていないこともあるし、うわべだけさっとすくわれて全く異なる理解に着地することもある。本当に理解してもらいたいことがあったら、同じ話でも何度も繰り返すしかないのかもしれない。順序を変えたり、例を変えたりしながら。
ほとんどの人は結局、自分が信じたいことを信じている。根拠などどうでもいいことなのかもしれない。
ただ、その信じていることが、その人に害を及ぼしている、もしくは、今後及ぼす可能性があるときには、私は相手の信じていることとは異なっても、より益になるような事実を伝えたいと思うのだが、相手の信じたいと思っている情報を上書きするのは困難を伴い、根気のいることだと、最近になってようやくわかった。相手が長い間信じていることはなおさら。「話せばわかる」は究極的にはそうだろうが、だれとでも話してわかりあおうとしたら、時間がいくらあっても、言葉がいくらあっても足りない。
たとえ相手の信じていることが、その人に害になるものであっても、事実を伝えることで自分が使う時間やエネルギー、相手にかける負担を、取り除かれうる害と天秤にかけてみて、時間と労力に値しないことであれば、そっとしておくほうが賢明なのかもしれない。理解できる準備が整っていない状態で、いくらわかりやすく論理的に明確に説明されても、わからないものはわからない(受け入れられない)。逆に、理解できる準備が整っていれば、ちょっとしたきっかけがあるだけで、ひとりでに理解が進んでいく。
すぐに何か手伝いたくなってしまう性分(熱意があるとか、責任感が強いとか、愛情深いとか言ってくれる人もいるが、わるく言えばおせっかい)で、ついつい役に立ちそうな情報をいろいろと口走ってしまうのだが、プライドを傷つけて地雷を踏んだり、長々と論争に巻き込まれたりしてしまうのは、それが原因だったのかもしれない。何かを伝える前に、相手が理解できる準備が整っているかどうか、かける時間と労力に値するかどうか、それを見極める習慣をつけたいと思った。