20180724

「ジャッジするな」という言われについて

スピリチュアルの知識が豊富だったり、心理学的なコミュニケーション手法を勉強したりしている人のなかには、ジャッジを忌み嫌う人が結構いる。「ジャッジしてはならない」ということに縛られている。

「ジャッジしてはならない」という教義に初めて遭遇したのは、数年前、環境関係の仕事をしている人と原発の話になったときだった。ウランを採掘している現場で作業にあたる人が被曝しているとか、使用済み核燃料の処理はどうしたらいいかわかっていなくて、何十万年も安全に管理しなければならないとか、たしかそんな話をしていて「本当のことが隠されているから、本当のことを知った人間はささやかでももっとまわりに伝えていく必要がある」というようなことを私が言ったときだと思うが、相手が「正しいとかいう言葉は分断を生む」「ジャッジしてはいけない」と私をたしなめた。

何が本当かを判断していることが、この人には「ジャッジしている」ように思えたのだと思う。真実かどうかを判断せずに、どうやって考えろというのだろうと困惑した記憶がある。

喫茶店に置かれていた本を開いたら、自然食に関わる仕事をしている人が「ジャッジすると疲れてしまうでしょう。だからふんわり受け止めておく」とコラムに書いていて、久々に「ジャッジしてはいけない」と言われたことを思い出した。

日本語で「ジャッジする」と言うと、ややこしくなるのかもしれない。元は英語のjudgeだろう。聖書にも「さばいてはいけない」という下りがあり、この「ジャッジするな」というのもキリスト教の文化から来ているのではないかと推測する。キリスト教の教えでのjudgeは「裁く」が一番近い気がする。事象や他者を事細かに切り刻んでじろじろと見て、自分の基準であれやこれやと決めつけたり、断罪したり、相手がこうするべきだと決めつけたりすること、という感じではないだろうか。

たしかに「裁く」というのは、必要以上にすべきことではないのかもしれない。他者の全体像は誰にもわからないものだ。誰かが何か人を困らせることをしたとして、その原因は当人以外のところにもあることが多い。その人だけが悪いわけではない。お金に困って盗みをした人がいたとして、まともな仕事につけるのにつかないからだと断罪するまえに考えてみると、仕事がない状況をつくっているのは社会全体の政治への無関心かもしれないし、仕事でひどい目にあって心に傷を負っているのかもしれないし、教育制度が不十分で自己肯定感が非常に低い状態で成人してしまったのかもしれないし、さまざまな原因が考えられる。それに、人は変化する。今望ましくない状況だからと言って、ずっとそうだとは限らない。恒久的に決めつけるのはよくない。

聖書の「さばいてはいけない」は、当時あった宗教の教義や規則をどのくらい忠実に守っているかで人の霊性の高さが量られていた、という背景があるようで、宗教の教義や規則で人を量ってはいけないという意味だったという説もある(参照:聖書入門.com)。現代の宗教に置き換えて例を上げるとすれば、何回マントラを唱えているかや、どれだけ高いお布施を払ったかで功徳の高さが量られる、という感じだろうか。万能とは言えない判断基準によって自他の人間性を決めつけることを諌めたものだと思う。この意味で考えれば、「女は美しくあるべき」という固定観念に基づくさまざまな提唱や無言の圧力も「さばいている」ことになるのかもしれない。

…と、考えると、「ジャッジしてはいけない」という教義に照らして、ジャッジしない人は優れていて、ジャッジする人はダメなやつと決めつけることも、「ジャッジしてはいけない」に反している。

ただ、日本語の「ジャッジする」はもう少しあいまいで、decide(決める)やreason(推論する)、conclude(結論付ける)なども混ざって使われている感じがする。自分がどうしていくべきかを決めるために、さまざまなデータや事実、他者の発言、行為などから推論したり、結論を導き出したりすることは重要なことだと私は思う。住んでいるコミュニティや、国、世界、宇宙といった、自分が属している空間で起こることをどうしていくべきか、どうしたいのかを決めるためにも、これらの思考は重要ではないだろうか。それを「ジャッジするな」と言われると、思考停止に陥ってしまう。

コラムの人が言うように、「ジャッジ」(日本語の用法で)はたしかに、常にしていると頭が疲れてくる。たとえば、近づいて大丈夫な人かどうかを判断する場合など、「ジャッジ」が必要な場合もあるけれど、意識的にオン・オフをしないと消耗してしまう。だが、オフにばかりしていると、見抜く目が衰え、自分の生き方の軸もぶれやすくなる。

「ジャッジする」とは判断することではなく、何かや誰かのことを乏しい基準で量って決めつけてその判断を恒久的に固定することだと思う。「ジャッジするな」というのは、本来の意味では、自分の意見や判断を持たないことではないと思う。思考は言葉ですることが多い。「ジャッジするな」と私に言った人は、その言葉の定義をあいまいにしていたために、「ジャッジしない」はずの自分が「ジャッジする」発言をしてしまうという状況に陥ってしまった。どんな言葉でも、借り物の言葉を使うときには、その言葉について十分に考察し、自分なりの定義をしっかり定めてから使わなければ、真逆の方向へ進んでしまいかねない。

)関連記事