20161004

共感は力になる

他人と意見や感じ方が違うことで怒る人がいます。私はちょっと変わり者なので、「ね、あんたもそう思わん?」と言われて、「うーん、そうかなぁ」とか濁したり、あんまりしつこいときなどは「いや、そうは思わんなぁ~」と答えることがあるのですが、たいがい「なんでそう思わんの!」と言われます。聞かれたままに根拠を説明するとますます憤慨されるのが常です。

何もそこまで怒らなくても…と思うことも多い。なんで、自分と他人の意見が違ったらいけないのだろう?

意見が違う場合でも、同じように考えなくたって、それぞれ納得できることをしたらそれでいいんではないかと思うのです。一緒に旅行へ行く人と行きたい目的地が違ったり、食事をする相手と行きたいお店が違ったりしたら、それは困るかもしれないけど、お互いに譲り合いながら交代交代で行きたいところに行くとか、そもそも一緒に行かないとか、そういうこともできるだろうし。

「あんたもそう思うでしょ?」に「うん」と是認しないと絶対に嫌という人も結構いる。相手が好きなものに対して、不必要に自分の批評を言うことはありませんが、言う必要がある場合に(言わないと買わないといけなくなるとか)、自分の感じ方や考えを伝えると、相手が好きなものを私が好きでないとわかると怒られたり、憤慨されたりすることもあります。相手が好きなものを知らなかったら、「なんで知らんの!」と怒られたり…。

全く意見が同じで得することってなんかあるんだろうか?とぐるぐる考えていて、他人にも同じように考えさせたくなる理由というのは、きっと承認欲求もあるけど、共感が力になるから、というのもあるのでは?と思いました。

元気玉みたいに共感の力が集まれば、実現の可能性が高まったり、すでにあるものであれば勢力が大きくなったりもします。共感が持つそういう力を本能的に察知しているから、共感が得られない場合に激怒したり、無理やりに相手に同じように感じさせよう、考えさせようとしたりするのではないかと思いました。

そんなやり方をしても、うわべだけの同意は得られる可能性はあるものの、本音のところでは反発が強まるばかりです。相手と自分の考え方や感じ方が違うということを大前提として受け入れた上で、相手の意見や感じ方を尊重し、相手が自分と同じように感じてくれない・考えてくれないことを悲しんだり怒ったりするのではなくて、自分が楽しむことに集中する、自分の考えをわかりやすく説明する、そういうことを黙々と続けることによって、まわりからの理解も少しずつ得られていくものだと思います。共感に力があることは確かにそうだと思いますが、それを得ていく方法はよく考える必要があるのではないでしょうか。

)関連記事