20161007

温厚に見えても何でも許せるわけではない

他者から「気づく力」が素晴らしいとほめてもらったことがあるが、まわりの人に気を使いすぎるほうだと自分でも思う。センサーが敏感でいろいろなことに気がつき、先々まで読めてしまったり、想定をぱっと幾通りか立ててしまったりするので、人付き合いは疲れてしまう。私といると相手は快適らしく、私も顔に疲れがでないので、人好きだと思われがちなのだが、寝込むほど疲れることもあり、回復に数週間かかるときもある。

接客や電話応対が上手だと言われたこともある。相手が快適なように気配りはできて客は快適だろうが、自分は気疲れしてしまい、いくらお金をもらえても毎日そんなことをしていたら早死にしそうだ。

外向きの私は、人あたりがよく、温和で穏やかで優しく見えるらしい。何でも許してくれると思われがちなようで、かなり失礼なことを言われたり、されたりすることも多い。

恐れている相手になら丁寧に説明したり、事前にこまめに連絡したりするであろうことも、私なら許してくれると思うのか、何も言わずに当然のように協力を求められたり、連絡が直前も直前だったりする。恐れている相手になら質問しないようなことも、私なら許してくれると思うのか、ズケズケと聞かれたり…。恐れている相手の話なら、背筋を伸ばして聞くであろうが、私なら許してくれると思うのか、あくびをして、全く関係のない自分の話を延々とされたり…。恐れている相手にならしおらしくしているのだろうが、私なら許してくれると思うのか、偉そうに超上から目線で話されたり、命令されたり…。

相方と私の両方への頼み事でも、私のほうが頼みやすいらしく、私にだけ連絡がきて、ぶしつけな頼み方をされることもある。

こういうとき、顔で笑って心で泣いての言葉通り、にこにこしてやり過ごすのだが、腹のなかは煮えくり返っている。

幼い頃から「一を聞いて十を知れ」と父に鍛えられてきたため、相手の言葉や態度の根底にある心情や魂胆、考え方も敏感に察知できてしまう。怒るべきポイントを察知してしまうセンサーが発達していて、もう少し鈍感だったら、人付き合いも楽だったのかもしれない。

穏やかに笑っていたって、鈍感で何にも気がつかずにニコニコしているわけではない。温厚な人ほど怒ると怖いというのは、そういうことだと思う。何でもわかって気づいている上で、腹が立ってもぐっと堪えているにもかかわらず、それをいいことにどんどん無礼なことをされるから、たまりかねて爆発する。私も、物申すときは最後、縁の切れ目になることがほとんどだ。失礼なことをしたほうはすっかり忘れているかもしれないが、されたほうは全て覚えている。

何でも許してくれると思ったら大間違い。この人なら許してくれるだろうなんていうのは甘い考えで、どんなに優しそうに見える相手だって、無礼な扱いを受けたら怒るもの。賢さや思いやりでぐっと堪えているだけのことだ。どんな相手にも礼節をわきまえて、丁寧に敬意をもって誠実な対応をすることが、自分にとっても相手にとってもいいことだと思う。

…とは言え、こどもが悪さをしたって、立派な大人は「こどもなのだから」と怒らずに諭すことができるのと同じように、相手が今どの成長レベルにあるのかを見極めて、これ以上は期待できないとか、これでこの人の精一杯なのだとか、そういうことを理解できるようになって、受け流す、許すということも、私は学ばないといけないと思っている。ぐっとこらえて腹にためるのではなく。そうしないと身が持たない。

敏感さや繊細さがなければよかったのか、と思うこともあるが、そうではなく、むしろ他者が心地よくいられるにはどうあるべきかや、自分が立派な人間になるにはどうあるべきかを学ぶ上で貴重な財産だと思う。