20160819

言い方に気をつけます…が気をつけすぎると何も言えなくなる、の話。

昨日は、仲間に気合いが足りないと責めるような市民活動家の投稿の話を書いたのですが、自分のことも振り返ってみると、反省すべきところはいろいろあります。

今の日本の政治状況に非常に焦りを感じていて、もっと意見を言う人が増えないかなぁ、とか、マスコミが正常に機能していないのだから一人ひとりが調べて声を上げていかないと、などといった思いは、やっぱり根底にあります。

それを、直接出しても、責められたような気持ちになるだろうから、なるべく言い方に気をつけようとはしているものの、取り方は人それぞれなので、気をわるくしてしまう人もいるかもしれません。それは、もう仕方がないかな、とは思っていますが、思いもしなかったような反応が起こってしまったら、それはもうそういうものとして受け止めて、次に活かす貴重な材料とさせてもらっています。

トゲが出ているという指摘も重く受け止めています。見たくないときに見なくていいように、フェイスブックへの投稿は、選挙などの重要な場合を除いて少なめにして、私の書いたものを読みたいと思う人だけが見たいときに見に来られるブログのほうに書くようにいます。

そういう他人から起こりうる反応をあんまり気にしてばかりいても、何も言えなくなってしまうし、だれにも反発を持たれないように、上手に言えるようになるまで待っていたら、日本の今の状況だと、手遅れになってしまうと思います。

攻撃を目的とせず、十分に配慮をした上で、大事だと思うことを言い、それでも意図しないところで傷ついたり、憤慨したりする人がいたら、その感情を引き起こしたのは私の落ち度か、それとも相手の至らなさかを、見極めて、次に活かす。疎まれても、憎まれても、地球のため、社会のため、自分のために、言わないといけないことはある。

かつて、大勢の若い人たちに向けて話す機会があったときに、あくまでも自分の話として、自分は3.11まで何も知らなくて政治にも無関心だったけど、マスコミや他人の意見を鵜呑みにするのではなく、自分で情報を取りに行く努力をして、声を上げていこうと思うようになったという話をしたことがありました。そうしないと、自分が望まない戦争や人権侵害や環境破壊に、知らず知らずのうちに加担してしまうことになるからです。

その後、半年近く経ってから、私の話を聞いてくれた人がフェイスブックに長めの投稿(メインは私の話とは無関係)を書いていて、その投稿のずっと下のほうに、「自分で情報を取りに行くのは大事だけど誰にでもできるわけじゃない」というようなこと(ちょっと違ったかもしれない)が書かれていて、もしかすると私の話を意識して書いたのかも、と、少しドキリとしました。

私がそのときにした話は、あくまでも、自分はそれをしてこなくて、したほうがいいな、と思ったから、その後はするように努力している、ということを伝えたかっただけで、自分で情報を取りに行く努力をしない人は主権者の義務を果たしていない、無責任だ、全員がやらなければならない、というのでは全くなかったのですが、もしかすると、自分で情報を取りに行く努力をしていないことを責められているように受け取った可能性もあるかもしれない、と思いました。もしかすると、あまりいい気持ちがしなかったのかもしれない。あくまでも「かもしれない」であって、もちろん逆の可能性もあります。本当に純粋に、その人も、自分で情報を取りに行くのが大事だと思っていることを表明しただけだったのかもしれません。

ただ、前者の可能性もないわけではないので、あくまでも自分のこと、として語っても、聞き手が自分のことに応用してしまったり、一般論として受け取ってしまったりすることもありえるのだと知りました。少しでも責められている感じを受けたら折れてしまう相手に対しては、対策を考えようと思いましたが、そうでない人に対しては相手の解釈にまでは責任が持てないと思いました。

私はそう思ったからそうしている(あなたにやれとは言っていない)と話しただけであって、それをやらない他者については何も評価を下していない(人それぞれやらない事情というのがあるだろうから)のに、自分が責められていると感じるのであれば、それは曲解だと思います。私は自分が自分の行動についてどう考えてどう行動するかを話しただけだから。それさえも自由に語れないのであれば、自分にも他人にも不誠実に生きるしかなくなってしまう。

ちなみに「主権者の義務」の部分について本音を言えば、過去にも書いていますが、國のことを考えるのは、国民主権で民主主義の日本においては、国民の責務だと思っています。憲法学者の樋口陽一さんも、国民には「知る義務」があるという言い方をされます(「憲法改正の真実」)。しかし、いろいろな事情でそれができない人もいるというのはわかるので、やっていない人のことを責め立てたり、非難したりすることはしていません。ただ、自分と自分の大切な人たちのためにもやったほうがいいし、できる限り努力してやってもらいたいとは期待しています。でも、やらないからダメだと責める気持ちはありません。やれないことは仕方がないのですから。

「誰にでもできるわけじゃない」を読んで、その後、いろいろと考えました。

自分で情報を取りにいく努力、これは状況としてはほぼ誰にでもできることです。やるかやらないかの違いだと思います。

図書館に行けば、いろんな雑誌や新聞があってただで読める。スマートフォンでネットができるなら、ゲームやSNSをする時間を少し減らして、気になるニュースの検索をしてみたり、ジャーナリストのツイッターやフェイスブック投稿、ブログなどを少しのぞいてみたりするだけでも全然、世界の見え方が違ってくる。検索の仕方がわからないのなら、「社会の真実の見つけかた」という本も参考になります。岩波ジュニア新書という中学生向けの新書なので、わかりやすい言葉で書かれています。検索もできないなら、まわりの人に意見を聞いてみる。当たり前に思ってきたことに疑問を投げかけてみる。

ほんの少し、たまには能動的に情報を探してみれば、見え方は変わってくるものです。

客観的な事実なのか、主観的な見方なのかを見分けたり、検索して得られた情報の信ぴょう性をかぎわけたり、事実から論理を組み立てて自分の意見を持ったり、といったことは、人によって能力に違いがあるかもしれません。しかし、これらは訓練によって身に付けることができるものであり、私だって最初からできていたわけではないし、今でもまだ修行中だと思っています。怠け心を乗り越えることが難しい人もいるでしょう。日々の業務に追われていて、仕事以外の時間を持つ余裕がなく、情報に向き合う時間がない人もいるでしょう。

やらないという選択をしているのは自分なのです。

やらないという選択をして、堂々とこれでいいと思うなら、そうすればいいでしょうし、本当はそうしたほうがいいのはわかるけど、今はできない、これは仕方のないことだと思うのなら、やらないという選択をしている自分を不満に思うのであれば、今、ほかにできることは何かを考えて、それを実行してみるという選択肢もあります。

すでにやってくれているフリージャーナリストや市民メディア、現場にいて情報を発信している個人などを応援するという方法もありますし、岩波書店の『世界』という月刊誌も多様な視点から世界の主要な出来事を論じた優れた雑誌だと思います。詳しい人におすすめの本やメディアをたずねてみて、参考にするということもできます。

自分で能動的に情報を取りに行くことができないから、受け身でも大事な情報が入ってくる状況を望むというのなら、マスメディアが国民の知る権利に資する情報提供をしているかどうかを、厳しい目でウォッチして、意見を伝えるということもできます(政府の情報統制もそうだけど、一般市民でもネトウヨなんかはそういうのをバンバンやっているそうで、テレビや新聞が恐れてリベラル寄りの報道ができなくなっているらしい[*]。戦前の言論統制みたいだからここまでのものはやらないでほしいけど)。

*参照:
池上彰さん談

「最近までは権力を持つ側は『メディアに圧力をかけてはいけない』というのが共通認識でした。(略)ところが、安倍政権になってからは、自民党はおもなニュース番組をすべて録画して、細かい部分まで毎日のように抗議し、訂正を求め、注文をつけてくる。すると、テレビ局は『面倒くさい』となる。対応が大変で、次第に『文句を言われない表現にしようか』となってしまうのです」

「さらに深刻なのは『電凸』です。『電話で突撃する』という意味のインターネット用語ですが、一般の読者や視聴者が、気に食わない報道があると、スポンサー企業に一斉に抗議電話をかける。『不買運動をする』なんて言われるとビックリするんですね。昨年6月に自民党の議員が、マスコミを懲らしめるためにスポンサーに圧力をかけることを提案して、問題になりました。それも実際にはすでに行われているんです」

「現代的に言うと『反知性主義』という言葉に言い換えることができるのではないでしょうか。冷静に議論をするのではなく、『マスゴミ』『反日』と罵倒して、数の力で封殺する。その状況でも冷静に立ち止まって議論することが、メディアの役割ですよね」

――「池上彰がテレビ局の「忖度」の裏に安倍政権の圧力があることを明言!「テレビ局には連日、抗議と“電凸”が」」(リテラ2016.7.6)より
これからも、相手に何かの行動を強要するような言い方はしないように気をつけますが、自分がどうするのか、それはなぜなのか、そうしたことはあくまでも自分のこととして語っていこうと思います。相手にもそうしろとは言いませんし、それぞれ事情があるでしょうから、非難する気持ちもございません。

私の書いたものが不愉快なら見ないでいただいて、見た上で何か思われたのなら、自分ならばどう考えるのか、自分はどうしたいのかを考える、ご自身の行動の判断材料にしていただければ幸いです。そのご判断に対して、私が困る場合(名誉毀損であるとか、誤解が流布されるとか、不当な攻撃を受けるとか)を除いて、私は名指しで攻撃をしたりはしませんし、直接文句も言いません。

ただ、心のなかにいろいろな感情が起こることは、人間ですから、止められません。それはほとんど公開することはありませんが、今回のように、私の学びとして記録しておきたい、他者にも共有したほうがよいと思われた場合には、プライバシーに配慮しながら、言葉の選び方にも注意をした上で、書かせていただくこともございます。今回のものはそういう例にはあたりませんが、たまに言われっぱなしにできない問題もありますし、そうすることで無責任な解釈や発言をけん制することにもなると思うので、そうしたいと思います。そこはご了承いただけるとありがたいです。