20160726

国のことを考えるのは国民全員の権利…というかもっと言えば責務。だって主権者なんだから。

民主主義。国民主権。

国民が主だということは、国民は主権者として、国のこと、社会全体のこと、諸外国との関係のことを真剣に考えていく必要がある。議員だけの責務ではない。

日本は代表を選んで、代表に話し合って、方針を決めてもらうという民主主義のスタイルだ。議員を選ぶことは代弁者を選ぶことであって、あとは丸投げすればいいというものではない。本来そうなのだが、今の日本は、政治のことを考えるのは議員や専門家だけがやるべきことという意識があるように思う。

私は、3.11後しばらくしてから政治について考えるようになった。あまりにも驚くこと、怒りを感じること、変えたいと望むことが多すぎて、まわりにも伝えるようになったが、「意識高い系」扱いを受けたり、プロを目指せばいいとか言われることもある。こんなふうに、政治や社会のことを庶民が考えると変人扱いされる。

ミュージシャンやタレントも国民であることは言うまでもない。しかし、彼らが政治について語ると、散々に叩かれたり、テレビの世界からパージ(追放)されたりする。都知事選に立候補する可能性のあった石田純一さんは、参議院選挙の投票の直前に、憲法の改悪の危険性について記者会見で語ったが、スポンサーから違約金の請求が天文学的な数字になり、事務所からも政治的発言を禁止された。憲法で保障されている言論の自由。こんなにも簡単に奪い去られるものなのか。こんなのっておかしすぎると思う。

なぜ、主権者である国民が国のことを考えて意見を述べるのがこんなに異常なことだとされているのか意味がわからない。主権者なんだから、みんな真剣によく考えて、普段からまわりの人たちと意見を交わして、考えをさらに改良していき、代弁者を選び、選んだ代弁者に意見を伝えていくということは、全くふつうのことのはずだ。もっとみんな主権者として見識を磨き、意見を交わし、政治をよりよく変えていくことに関与したら、自分が望む世界をつくっていけるのに、どうしてその権利を放棄し、それだけでなく、その権利を行使している人の足を引っ張るようなことをするのか。

意見を述べていくなかで、ときには批判を受けることもあるかもしれない。それによって、新しい視点が得られて、さらに見識を高めたり、意見に奥行きができたり、ということもあるし、事実誤認に気づくことができる場合もある。ただ、現状では、ものをよく考えている人ほどものを言わず、無責任に発言ができる人の声が大きすぎるため、反論のための反論でしかなかったり、支離滅裂で何を訴えたいのかわからない場合も多い。それで怯んでしまっては、考えの足りない浅はかな人間ばかりの声が大きくなり、それがメインストリームの意見だと誤認されてしまう。ひるまずに声を上げ続けることが大事だと思う。

なぜ、憲法で知る権利が保障されているのかと言えば、主権者である国民が判断材料を得て、見識を磨き、政治的な意思決定をするためだ。なぜ、憲法で表現の自由が保障されているのかと言えば、そうした判断材料を提示したり、自分の意見を他人と交わすことで、他人に判断材料を与えることができるからだ。なぜこれら2つの権利が保障されているのかといえば、政権がおかしいことをしている場合に、判断材料を得て、他者と意見を交わし、より適切な代表者を選挙で選ぶことによって、政権を改めることができるからだ。

今、憲法の改悪が射程距離に入っている(7/10の参議院選挙の結果、衆参両院で、憲法の改悪に前向きな勢力が、改憲発議に必要な3分の2議席を占めた)。憲法で保障されている国民の権利の意味をしっかりと理解して、使いこなせている人はほとんどいない。もう一度、自分に与えられている権利をよく考えてみるべきときが来ているのだと思う。いくらよいものを与えられても、使い方がわからなければ、猫に小判、豚に真珠といったところだ。この危機を、チャンスに変えて、もう一度、憲法が我々国民に保障している権利と向き合い、その使い方を覚えて、使いこなし、よりよい社会を創っていくことに役立てていってほしいと思う。