20140706

図書館にて

地元の図書館に、気になる本がいっぱいあって、ちょっと意外でした。エコでスローで自然と調和した暮らしに役立つ本が充実しています。こういうのが好きな人が多い町なのかなぁと少しわくわく。

(左上から時計回り:「昭和がお手本 衣食住」、「エアコンのいらない家」、「食べる野草図鑑」、「若杉友子の「一汁一菜」医者いらずの食養生活」、「こうして作れば医者はいらない

若杉ばあちゃんの本もたくさんありました。若杉ばあちゃんは、一汁一菜の食養を実践して、髪は黒々、肌もつやつや、新聞も眼鏡なしで読めるくらい視力もよく、米も野菜も作っている元気いっぱいのおばあちゃんで、私も将来、こんなおばあちゃんになりたいと思っています(でも、自分の直感と身体に聞いてのいいとこどりで、全部杓子定規に守っているわけではありません。大豆も酢も食べますし、放射能は避けています)。

若杉ばあちゃんの本に「本物かニセ物か、よいか悪いか、善か悪か、嘘か真かがわかる人間でいることが、自分や家族、そして社会がよくなる、一番手っとり早い方法です」と書かれていて、さすが、いいこと言うなぁと思いました。

(ちょっと長めの続き)
*もう少し詳しく、自分の思考の記録として書きたいと思います。

社会を良くしようと思うときに、いろいろなアプローチがあります。でも、好きでないことや向いていないことをしたり、仕事や日常生活を犠牲にするほどの時間やお金をかけたり、無理して活動を続けたら、精神的に歪みが生じてきて、自分がしていることをしていない人に対して批判的になったり、怒ったり、自分と他人を比べて優越感に浸ったり、ということが出てきてしまうように感じます。

変えたい気持ちはいっぱいあるけど、声高にシュプレヒコールを上げたりは苦手で、大デモのときみたいにちょっと歩くくらいならできても先陣切ってデモなんて無理だし、「ルポライターになったら?」とアドバイスをもらって、「それもいいかも!」なんて一度はその気になったりもしましたが、危険を覚悟で闇を暴くなんてそんな度胸はありません。向いていないのに、頑張ってデモで声を張り上げたり、闇の世界に切り込んでいったりしたら、私だったら多分、いろんなネガティブな感情を持ってしまうと思うし、「こんなにやっているのに何で変わらないんだ!」と怒ってしまったりするのではないかと恐れています。

活動を頑張ってくれている人の中にも、「なんであの人はあの程度しかやらないんだ!」とか、「興味もないなんて連中は最低だ」とか、言ってしまっている人もいます。自分を犠牲にしていると感じているから、他人にも同程度の犠牲を要求したくなるのかもしれません。私もやってしまっているかもしれず、選挙の大切さを発信したりしていたら、離れていった人もいます。でも、思っていることを表明することで、新しい仲間も増えて、それはうれしいことです。

自分がハッピーで、それを選択するのが楽しくて、やりたいからやる、やりたいスタイルでやるほうが、たとえ地味で少しずつであっても、持続できる分、最終的にはインパクトも大きくなるんじゃないかなぁと思います。楽しかったら、もうちょっとやってみようかな、と実践できる範囲が広がるし、楽しそうにしている様子を見て、興味を持ってくれる人や仲間も増えていくと思います。だから、まずは知って、自分の心と頭と身体で吟味して、選択し、楽しみながらできる範囲で実践していく、それが大事だなぁと思いました。

食べるもの、着るもの、使うもの、ライフスタイル、私の選択はかなり変わっていると思います。「そんな精進料理みたいなもんばかり食べて身体は大丈夫なのか」と言われることもありますし、オーガニックや非電化を選んでいたら「健康オタク」と呼ばれたり、もしかしたら知らないところで「過激派」「キチガイ」などと噂されているかもしれません。でも、好きでやっていることで、楽しくて、身体も健康で快適なので、大丈夫だし、やめる気になりません。

楽しくて続けているうちに、興味を持ってくれる方も出てきて、自分がしていることの理由や背景を伝えられる機会もできてきました。伝えるというのには、まだまだ修行がいるなぁと感じていて、焦って多くを伝えようとしてしまい、相手が楽しめる範囲を越えてしまって失敗したな、と反省することもあります。

数年前までは、普通のものがどんなひどいことをして作られているかというような情報は、知っていても話さないようにしてきました。こっちのほうがおいしいから、肌に優しいから、健康的だから、職人の技や手のぬくもりがあるから、といったポジティブな情報だけ伝えることが多かったのですが、ただの贅沢品と捉えられてしまうようでした。

聞いてくださった方が、一度は試してみて「おいしいね、いいね」と言ってくれても、なぜそっちを選んだほうがいいのかを伝えられずに終わってしまうと、おいしいだけではその選択を継続する動機にはならないようでした。「ただの贅沢品だから私みたいなのは安いほうで充分」みたいになってしまうので、もどかしく感じ、聞いてくれそうな人には興味を持ってくれそうな部分から話してみるようになりました。失敗もまだまだしてしまいますが、たとえ怒らせてしまったり、憤慨させたりしてしまっても、相手がそれで燃えてくれたり、考えるきっかけにしてくれたり、結果的にいい刺激にしてくれたんだなぁ、結果オーライかぁということもありました。

そういう自分も、ほんの数年前までは何も知らなくて、チェーン店の牛丼もハンバーガーも安くて栄養があると思ってよく食べたし、アンフェアなチョコレートを平気で食べていたし、環境に悪い合成洗剤もガンガン使っていたし、原発や戦争を推進する企業の製品を使っていました。今はいろいろと知ったから、そのへんで買えるものは限られるようになりましたが、何も知らずにテレビに流されたり、権威に合わせたり、大多数に合わせたりして人任せの選択をしていた頃に比べると、自分で情報を集めて自分の選択で生きていくのは気持ちがいいものだと感じています。

その選択の積み重ねは、一年にしたら結構な額になると思うし、私が一生の間に、環境や社会にいいことをしている人たちに支払うお金だって、ちりも積もれば山となるだと思います。まわりでも、日本や世界を見渡してみても、ポジティブな変化を感じるようになりました。地味で格好悪くても、だれに何と思われても、自分がまずは真実を知り、実践を重ね、関心を持ってくれた人に上手に伝えることを地道に続けていこうと、ばあちゃんの言葉に改めて考えさせられました。