20140308

公園の木

昨秋の夕暮れのことだった。

図書館から歩いて帰る途中、近所の中学校の前を歩いていたら、急にひんやりした気持ちを感じた。心の中に冷たい空気が流れこんできたような感覚だった。深い悲しみや淋しさが入り混じったようななんとも言えない感情だった。こんなことは初めてだった。

立ち止まって横を見ると、木が立っていた。そこは児童公園だった場所で、ブランコなどの遊具もある。バリケードを張られて、立入禁止になっていて、道沿いにマンション建設計画の立て札が立てられていた。

それから2週間ほどして、同じ場所を通ると、木は切られていた。

友人がFacebookに書いていた話を思い出した。府中市の児童公園には、土地所有者が市に土地を貸して公園にしているところが複数あり、ただでさえ子どもの遊び場所が少ないのに、土地所有者が何か事情があって土地を貸せなくなった場合は、閉鎖されてしまう。昨年は特にそういった閉鎖の件数が他地域でも多かったようで、テレビのニュースにもなっていたそうだ。

この木が立っていた公園も同じ例だった。土地所有者が集合住宅建設に土地を使おうと決めたので、市へ貸すことをやめ、公園が閉鎖されることになった。

子どもたちの遊ぶ声が賑やかだったのに、突然、立入禁止になって、淋しいところに立たされていた木。いずれ自分が切られることも知っているように見えた。悲しかった。

土地所有者が悪いわけではない。日本のルールに照らせば、持っている土地を何に使おうがその人の自由だ。でも、悲しかった。いつも行く遊び場に急に入れなくなった都会の子どもたちはどんな気持ちなんだろうと思った。子どもたちや親子を見守ってきた木は一人でずっと立たされて、お別れできずに切られた。死は解放で祝福すべきものと言う人もいる。でも、私には悲しかった。

このときのことが記憶に蘇ることがよくある。悲しかったけど、学ぶことが多い経験だった。

私が土地を手に入れることがあったら、その土地を、自分のためだけでなく、まわりの人が楽しくなって、ほかの生き物たちも気持ちよくて、子々孫々に恵みを残せるような使い方をしよう。

だれかがした選択の結果に、集団の意識がもたらした結果に、善悪の判断を下して、レッテルを貼って終わるのではなく、その結果に対して、自分はどう感じるのか、自分ならこの場合どうするのか、どうしたら次はよりよいと自分が感じる選択につなげられるのかを考える材料にしよう。

あの木を思い出すたびに新しい学びが加えられていく。あの木は物質としてはこの世に存在しなくなったけれど、私の中で生きてたくさんの学びをもたらしてくれている。

余談だが、自民党が政権についてから、私の家のまわりでも畑だったところが建て売りの家になったり、公園を潰して道路を通す計画が通されたり、騒々しくなった。政策と何か関係があるのかもしれないと思うほど、自民党になった途端にだ。政治というのは、こうも日常生活に影響を及ぼすのだということを知った事例の一つだ。建て売りの家々はしばらく空き家のまま、道路計画は住民の反対運動も起こった。木は切られ、土は掘り返されてコンクリート詰めになった。なぜ、だれも欲しくないものを欲しがらせようとして、自然を破壊しなければならないのか。お金が入ってきても一時のことで、循環しない。使ってしまえば、自分のところにもう戻ってこない。人はこうも流されるものなのか。私たちはもっと、批判的思考と論理、そして感覚と感情を鍛えて、主体的に自分で判断できるようになったほうがいい。