20140112

瞑想に関する誤解

【旧暦12月12日 月齢 10.7 小寒 水泉動(しみずあたたかをふくむ)】

瞑想、と言うと、座禅を組んでじっと目をつむり、悟りを求める、というイメージしかなかった。

幼いころ、私が急にハイテンションになってきてわちゃわちゃし始めると、父が決まって、「座禅せい!」と怒り、「絶対に嫌だ!」と猛抵抗したものだった。頭を情報が暴走しはじめたから瞑想をして頭を沈めなさい、ということだったのだと思う。

日本の伝統的暮らしの本、持続可能な暮らしを紡いでいる人のエッセイ、海外にまだ残っている自然と調和した昔ながらの暮らしについて書かれた本、日本の八百万の神々の本、ヨーガの本、霊氣の本など、いろいろ読んでいたら、瞑想にもいろいろあるということがわかってきた。

頭の中を駆け巡っているさまざまな思考、「あーあれしなきゃ、これしなきゃ」、「あんな言い方してどう思われたかな」、「あれはどうしたらいいだろう」、「あれをこうしてこうやって段取りして…」、放っておくと次々現れてくるこういう思考が、出てこない状態にして、心の奥からふっと湧いてくるものや、頭のなかにふっと降りてくるものを待つ、それが瞑想なのではないか、と思ってきた。放っておくと次々に心配事ややらなきゃいけないことが溢れてくるので、脳に静かになってもらうために与えるおしごとが、マントラを唱える、写経する、呼吸を注意して聞く、といったことなのではないか。

目をつむって長時間じっとするだけが瞑想ではなくて、森の中を一、ニ、一、ニと歩いたり、川の水の音を聞いたり、炎を見つめたり、縫い物をしたり、編み物をしたり、洗い物をしながら作った人に思いを馳せたり、そういう動の瞑想というのもあるんだと思った。昔の人の生活は、歩いたり、火を眺めたり、水を組んだり、自分の着るもの・使うものを手で作ったり、毎日の中に瞑想的な時間があって、それが人間性の向上につながっていたのだと思う。瞑想は怪しげなものではなくて、現代人が便利と引き換えに忘れてしまった人間に本来あるべき日常なのだ。

そう考えると、瞑想を日々の暮らしに取り入れるのは難しいことではない。ほんの数十年前までの暮らしはそうだったのだから。瞑想的時間を意識的に作り、ふっと降りてくるもの、ふっと湧いてくるものを大切にしたい。