20160818

楽しむことを責める投稿を見て考えたこと。伝統的な祭りが市民運動に及ぼす影響について。

日本は今ようやく市民のための政治を取り戻そうという動きが始まったばかりで、まだまだ、長い道のりになると思う。末広がりに長く続いていく運動にしていくためには、知恵と工夫、そして人間性を高めていくことが肝心だ。ちょっとやそっとでは変わらない。先を考えずに全力疾走して再起不能になるといった状況は、避けるべきだと思う。

夏祭りのシーズンで、全国各地のお祭りを楽しむ様子がSNSでも流れてくるようになった。そんななか、日本はこんなに悲惨な状況なのに、お祭りに浮かれている場合かという怒りがこもったフェイスブック投稿の話を耳にする。日本人はみんなすでにお祭り頭なのに日本中で連日祭り祭りで、そのお祭り頭は一体いつ覚めるのかというようなことが書かれていたという。

その人とフェイスブックでつながっている人たちもお祭りに行った投稿をしていたようだし、そんな怒りをぶちあげたら、その人たちは萎縮してしまうのではないだろうか。投稿主が、沖縄の高江や辺野古で毎日座り込みをしていたり、伊方原発の再稼働反対デモに毎日参加していたり、そういうことであれば、まだその気持ちも理解できるが、そういうわけでもない(ほかの人の投稿でわかったことだが、自分も夏祭りに行っていたよう。自分では書かないというのも卑怯くさい感じがする)。

その人とフェイスブックでつながっていた人でお祭りに行った投稿をしていた人たちのなかには、政治や社会のことに普段から関心があって、情報を発信したり、勉強会に参加したりしている人もいたようだ。前置きや断りもなく、お祭りを楽しんでいる人への嫌味とも取れるような投稿をするのは、どういう結果を期待してのことだったのだろうかと不思議に思う。

この投稿に見られる考えは、「ほしがりません、勝つまでは!」というスローガンのような、戦時中の洗脳と同じ構造に見える。市民運動が勝つまでは楽しいこともみんな我慢しろというような空気づくりは、戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」と同じではないのか。リベラルぶってるようだが、軍国主義者と同じようなことをしているとは思わないのか、と聞いてみたくなる。

こういう、ちょっと物を知ったからって、あるいは、ちょっと何か活動をしているからって、偉そうになっているリベラル派は苦手だ。何も考えていない無関心な人のほうが、無邪気で人間性がずっといいなぁと思うことすらある。自分だってほんの数年前に知っただけだし、たまたま知る機会に恵まれていただけで、何かが少しでも違っていたら、自分もほかの人と変わらず、何も知らなかったかもしれないのだ。責める権利なんかない。責めるべき相手は、だまされて浮かれている人でもないし、なんらかの事情があって情報発信や運動への参加ができない人でもないし、責任を追求すべきは、政府であり、ジャーナリズムの役割を果たしていないマスメディアである。

楽しいときは楽しまなくちゃ、と思う。長い道のりなのだから。思う存分、目一杯、人生を楽しむ。楽しいときは思う存分、楽しいことを味わって、がんばるときはがんばる。楽しいことがあるからこそ、がんばれるのだと思う。

それに、楽しいことを続けていきたいから、平和を守りたいし、永続する悲劇と隣合わせの原発は今すぐにでも卒業したほうがいいし、治安をよくするために雇用を安定させたり、セーフティネットを強化したりして、格差を是正しないといけない。マイナスを防ぐための目的よりも、プラスを増していくための目的のほうが、参加しやすい活動になっていくと思う。

それだけではなく、お祭りが民主主義の強化にもたらすよい影響もある。地域のお祭りが残っている地域では、地域の人々の結束が強いため、いざというときに一丸となって立ち向かうことができるという話を聞いたことがある。

たとえば、祝島には神舞という4年に1度の大々的なお祭りがあり、古くから、それぞれが役割を担い、大きなことを成功させる体制が培われてきたそうだ。島の歴史や暮らしが祭りという形で伝承されていく。映画や記述という形ではなく、人々が舞うことで人々の中に息づいていく。祝島のすぐ向こうの対岸に上関原発が建てられそうになっていて(今も)、自然を、海を、島の歴史と暮らしを売り渡してはいけないという想いで、30年以上、島の人々は反対運動を続けてきている。そのおかげで、今でも原発は建てられていない。今でも建てようとする動きはあるが、それでも、島の人々の団結力と粘り強い活動のおかげで、まだ建設には至っていないという事実がある。

島で有機農業と養豚を営む氏本さんの言葉がこのことを端的に示していると思った。
原発はたかが30年。祭りは1200年。時間軸が違う。神舞のおかげで右往左往しなくてすんだ――「子や孫に美しい自然と生活を残したい」~8年ぶりに祝島を訪ねて(written by 堀切さとみ on レイバーネット)
*祝島についてはこちらもおすすめの記事です↓
いのちの映画祭 上映作品 『祝の島』 監督インタビュー (中村隆市さんのブログ2012/03/14)

また、お祭りでは、気の合う人も合わない人も、考え方や価値観の違うさまざまな年代の人たちが、お祭りの開催という一つの目的に向かって話し合いをする。ぶつかることもあるだろうし、粘り強い交渉が必要になることもあるだろう。親分みたいなドンがいて、言いなりになりつづけて鬱憤が溜まっているみたいなこともあるかもしれない。でも、お祭りの開催までにあるさまざまな話し合いや活動が、まさに民主主義の実践の場になっているのではないだろうか。それが毎年ある。お祭りをつくりあげていくことが、民主主義教育になっている。普段から、いざというときに意見を言い合える関係ができていて、なおかつ、意見を言い、意見を聞く能力を培っておくという側面も、お祭りにはあると思う。

このように、お祭りが大事なことから目を逸らすものとは、一概には言えないのではないだろうか(クリスマスやバレンタインなどの商業的なイベントで、伝統的な地域のお祭りにはあるような話し合いや協力の要素がないものについては、目を逸らすためのものと言える)。民主主義の訓練になっているし、いざというときに結束して国家の横暴に立ち向かう基盤をつくっている。こういった背景も知らずに、「夏祭りにうつつを抜かしてる場合か、この非常時に」みたいなことを言うのは、非常に了見が狭い。

環境活動家の田中優さんの名言「楽しくなければ活動じゃない」が私は好きだ。長い道のりなのだから、楽しくなければ続けられない。自分がやりたいからやれて、楽しそうに、あるいは使命感に燃えてやっている自分を見て、興味を持ってくれたり、私もやってみようかな、と思ってくれたりした人が後に続いて、お互いに励まし合って広げていく、そういうことが大事だと思う。懲罰や報酬で人を動かすのは限界があるし、それでは体制側がやっているのと一緒になってしまう。そうではなく、共感と自主性に基づいたあたたかみのある活動が目指すべき方向性なのではないだろうか。

) 関連記事
*祝島に関するおすすめの本とドキュメンタリー映画*

原発を止める島―祝島をめぐる人びと―


祝(ほうり)の島 原発はいらない!命の海に生きる人々 [DVD]


ミツバチの羽音と地球の回転 [DVD]